「気持ち良さそうですね、飛行機の運転って… 」 某国営放送で放映されたパイロット養成の特番を眺めていた徹は、他意もなく 素直な感想を述べたのが運の尽きである。瞳に邪念の光りを秘めて夕子は素早 く反応する。 「そうね、徹も小型機の操縦資格くらいは持っていた方が便利だわ」 何の気ない一言が大きな波紋を巻き起こす予感に怯えて、その場で慌てて徹は 前言を撤回したのだが、それは既に後の祭りだ。 「男たるもの飛行機の操縦ぐらい出来なきゃ、淑女をエスコートするのに不便 でしょう?そうは思わなくて? トオル」 この一言から徹はうむも言わさず東京で事業用の小型航空機の免許を取らされ ている。忙しい仕事の合間を縫っての教習だったが、彼も子供の頃は格好の良 い戦闘機のパイロットに憧れたくちであったから、費用一切を夕子が負担して くれた事もあり、この教習には嬉々として参加したものだ。まさか、彼の美し くも凶暴な上司が、その先の事まで企んでいたとは知る由も無く、徹は熱心に 飛行機の操縦に取り組んだ。 「えっ? ジェットの資格も取るのですか? 」 驚く徹に美貌の女上司は笑顔で応える。 「ええ、もちろん。今どきプロペラ機じゃ、亀にも負けるわよ。なにもジャン ボの資格を取れって言っているんじゃ無いわ。もっとささやかで可愛い小さ なジェット機を飛ばして来なさい」 首尾よく小型機の操縦免許を取得した徹は、悪い予感に取り付かれたが、すで に罠にはまった事を自覚した彼は夕子の次の台詞を待って身構える。 「ほら、私は来週からパパの付き合いで欧州歴訪の為に2ヶ月近く日本を離れ なければならないでしょう? 」 彼女の言葉に徹は無言で頷く。思えば以前に彼女が同じく父親であるアメリカ 上院議員に随伴して東南アジア各国を歴訪していた時には、徹は因果が巡った 末にF国の反政府主義者との戦闘に巻き込まれたものだ。装甲車までも向こう に回してた戦闘の体験を思い出して、警視庁の巡査はつい顔を顰める。 「あら、そんなに悲しい顔をしないでちょうだい。私だって下僕… 召し使い … いえ、可愛い部下と2月近くも離ればなれに成るのは辛いのよ。でも、 警視庁は今度も徹の随行は駄目だって意地悪するの、だから… 」 彼の態度を勝手に良い様に誤解した夕子は満面の笑みを浮かべている。『だか ら… 』の次に続く台詞が常に破壊力満点の爆弾な事は、これまでの経験則が 如実に物語っているので、徹は下腹に力を込めてその場に踏ん張り女上司の言 葉を待ち構える。 「私が日本を留守にしている間に、ひとり残された徹がさみしい思いをしたり 、性悪な警察官僚に虐められるのは悲しいわ。そこで、彼方を助ける算段を 整えてあげたのよ」 二人の直属の上司に当る峰岸警視は、夕子の度重なる暴走で生じる、ちょっと した市街戦並の戦闘行動の後始末に追われて、今年になって3度目の胃潰瘍の 悪化による入院中だし、その他の警視庁の幹部達は、外事3課、別室の文字を 目にするだけで、書類を見境なく他に回すていたらくな現状を鑑みれば、間違 っても夕子の留守に何かを仕掛けてくる心配などは無いだろう。 「お言葉を返す様ですが、峰岸警視も入院なさっていますから、この2ヶ月は 本庁で大人しく書類の整理でもして過ごしますよ。どうか、格別の御配慮な どは無用にお願いします」(頼むから、ほっておいて下さい! 2ヶ月のパ ラダイスを取り上げられるなんて、真っ平御免です! )… (徹の心の声) 「あら、私がそんなに薄情な上司だと思っているの? 悲しいわ。謙虚なのは 日本人の美徳だけれども、それも時と場合によるわね、そうでしょう? ト オル? 」(愚図愚図言わない! もう段取りは整えてあるのよ! 逃げら れっこ無いでしょう? )… (夕子の悪巧みの胸の内) 桜田門に鎮座する庁舎の一角で繰り広げられる、FBIから捜査技術交換の名 目で送り込まれている美人捜査官と部下の平巡査の鍔迫り合いは、無論勝負は 最初から見えていた。 「それで… 今度は何処に研修に行くのでしょうか? 」 勝ち目のまったく見えない勝負を賢明にも諦めた徹は、がっくりと肩を落とし て呟く様に問いかける。まあ、以前には有無も言わさずにネバダ砂漠でアメリ カ海兵隊の特殊部隊であるシールズの訓練キャンプに放り込まれた経験を持つ 徹だから、すでに腹は括っている。 「せっかく飛行機の免許をもらったのだから、もう少しお勉強して来なさいね 。表向きはアメリカの警察での研修に成っているから心配はいらないわ」 この一言から、夕子が父親と欧州を巡り歩いている最中に、警視庁の平巡査は 夕子から無理矢理に合わせ持たされたCIAの特殊工作員の資格で、今度は海 兵隊の航空部隊の訓練場へと派遣されてしまう。 (自家用ジェットの資格でも取って来いと言うのかと思えば… よりによって 戦闘機の訓練だものな。まあ、合衆国の予算で資格がとれるのはありがたい けれど、これってアリなのかなぁ? ) ここ数日の猛特訓ですっかりと手慣れた感のある様子で副座のタロンを操る徹 の耳に、飛行教官からの指示が飛び込む。 『よし、散歩はこれまでだ、基地に戻るぞ、トオル』 ここに至った経緯に思いを馳せていた練習生は、慌てて現実に戻り操縦桿を握 りしめる。 「了解、キャプテン」 彼は幾分スロットルを開きながら操縦桿を操りT38ジェット練習機、通称タ ロンの機首をネルソン・ベースに向けて振る。訓練空域から10分とは離れて いない海兵隊の航空部隊の滑走路が見えて来ると、後席の教官は気軽な口調で 注意を促す。 『OK。降下率は毎秒1500フィートを保てよ。いいぞ、エンジンの回転数 も80パーセント、教科書通りだ』 既に何十回とこなした着陸だが、それでも徹の緊張は高まりアドレナリンは最 大限に放出されているだろう。 「指示対気速度165… ファイナル・アプローチに入ります、キャプテン」 訓練なのだから自動の誘導管制装置は使わせてもらえないが、幸いな事に着陸 には持ってこいの軽い向い風に恵まれている。徹はタッチダウン・ポイントを 目指して降下率を注意深く調整しつつギアダウンのタイミングを見計らう。極 めて素直な特性を持つ練習機のT38だったので、パイロット候補生は何の不 安も無く最後の作業に没頭している。 (よし、ここだ… ) スラストがアイドリングに戻された機体は、これまでと同様に前輪から静かに 滑走路へ接地する。手早くフラップを目一杯に上げると、そのまま前輪のステ アリングをホールドしてブレーキを掛けた。アプローチが極めてスムーズだっ たおかげで、タロンは静かに着陸して徐々に滑走路の上で速度を落として行っ た。 『グッド! スパイにしては上手いものだぜ。なあ、トオル。このままCIA なんぞ辞めてしまって海兵隊に就職しろよ。お前なら良いパイロットに成る ぜ』 一応は中央情報局からのお客さま扱いだから、お世辞とは百も承知しているが 、それでも心地よい誘いをくれる黒人の大尉に真実を語れない徹は、苦笑いを 浮かべて冗談で言葉を返すしか手立ては無い。 「これで、007もやっていると面白いんだよ、キャプテン」 誘導路をタキシングしながら、徹は自分が本当に警視庁の平巡査である事を疑 い始めていた。
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