まだ新築であろうマンションの一室の扉の前に立った加奈子は、ひとつ大きく 息を吸い込んでから指先に力を入れてインターホンのボタンを押し込む。軽や かな呼び鈴の後にガチャガチャと鍵を開ける音が響くから、比較的に大きな手 提げ鞄を持った彼女は扉が開くのを待っていた。 「やあ、早かったね」 てっきり姉が顔を出してくれると信じてい加奈子は、出迎えたのが義理の兄の 常男だったので酷く驚き一瞬ふつうの反応が出来ない。しかし、気さくな義兄 は彼女の異変に気付く事も無く部屋に引っ込んでしまう。 さらにもう一度ゆっくりと深呼吸した後に、加奈子は姉夫婦の暮らすマンショ ンの部屋に足を踏み入れる。三和土の脇にある作り付けの靴箱の上には大きな 水槽が置かれていた。水の中では義兄の趣味である熱帯魚が優美に泳いでいる が、今の加奈子は色とりどりの小魚達を眺めている余裕すら無く、気持ちが昂 り頬が赤らむ事を心配している。 「お〜い、芳美。もう加奈子ちゃんが来てくれたぞ」 リビングに戻った義兄が姉の芳美に呼び掛ける声を聞いて、加奈子はますます 鼓動が早まるのを感じて困り果てる。 (まいったな… 自然にふるまわないと… うん、自然に、自然に… ) 加奈子は自分に言い聞かせながら、わざと少し廊下で間を置た後に、ゆっくり と姉夫婦の待つリビングへと足を進めて行く。神崎加奈子は来年成人式を迎え る女子大生だ。 世間でも広く名前の知られた私立の名門お嬢様大学の英文学科に在籍する彼女 は、英国人である祖母の血を色濃く引き継いだクォーターで、繁華街をそぞろ 歩けばモデルのスカウトがひっきりなしに声を掛けてくる美貌の持ち主である 。 それは彼女の姉の芳美も同じ事で、二人は実家の近所では美人姉妹との評判が 高かった。170センチを少々上回る長身に加えて、アングロサクソンの血が 四分の一ほど混じった二人の美女が並んで闊歩する姿は、まるで芸能人の様な 華やかさがある。 二人の美人姉妹は5才の年齢差はあったが、とても仲が良かったから、休日な どはしょっちゅう一緒に出かけてウインドッショッピングや映画等を楽しんで いた。だがそんな姉妹の微笑ましく雅びやかな交流も、姉の芳美の結婚でピリ オドが打たれた。 一足先に社会に出ていた姉が結婚相手に選んだ常男は、大学時代にはラグビー 部に所属していたスポーツマンで、見るからに汗の似合う体育会系の大男であ る。 加奈子自身はどちらかと言えば理系でスマートな殿方が好みで、これまで付き 合って来たのも、皆、知的で優し気な男ばかりだったから、最初に仲の良い姉 から常男を紹介された時には、正直に言って好感は持て事は出来ていない。 比較的に背の高い加奈子に比べても、更に頭ひとつ分はゆうに大きな常男は、 その堂々たる体躯に相応しい豪放磊落な若者で、明るく朗らかな点は彼女も良 い所だと認めてはいる。 でも、付き合っているボ−イフレンド達に比べて、万事大らかで繊細さに乏し い義理の兄は、まだ男に夢を持っている若い義妹には、些か粗暴に見えてどう にも気に入らない。 しかも、しゃくに触る事に、男の子に恵まれなかった彼女の両親が、この大雑 把な性格の義理の息子を妙に気に入っているのだ。最初は加奈子を実家から放 り出した上で、自宅を二世帯住宅に改装して新婚早々に同居するプランまで父 親が持ち出していたのだが、それは常男が義妹に遠慮して固辞している。 その変わりに彼女の実家から車で30分とはかからぬ場所に新居を構えた姉夫 婦は、週末に成ると度々加奈子達の暮らす実家を訪れて、常男は義理の父親の 晩酌の相手も務めていた。 彼女の理想はジャニーズ系の優男であり、肩幅も胸板も面の皮も分厚い大男で は断じて無い。結婚前の姉も加奈子と同じ様な好みであり、妹である彼女が知 る限りは付き合いのあったボ−イフレンド達もかなりの二枚目ばかりだったか ら、正直に言って姉が常男を結婚の相手に選んだ時には随分と驚いたものだ。 醜男とまでは言わないが御面相は十人並みで、気品とかしなやかさなど微塵も 感じられぬ無骨な大男が、どうやって加奈子と好みが似ていた面食いの姉の芳 美のハートを射止めて華燭の宴にまで持ち込んだのか? なんとも不可思議な 事であった。 しかし、結婚してから、もう1年にも成るが、どんなに色眼鏡を通して見ても 、やはり惚れているのは姉の方であり、いまもって何くれとなく、かいがいし く夫の世話をやく若妻は幸福感を隠そうともしない。 最初は姉の存念が分からずに理解に苦しんだ加奈子も、ここ1年の二人の暮ら しぶりを見る限りは、やっぱり姉は常男に首っ丈に見えた。まあ、それならそ れで構わない。姉が何故変節に及んだのか? 分からなければしょうがないと 思う最近の加奈子だった。 だから、彼女が義兄の顔を見て、あんなにも慌てて心臓がひっくり返る様なシ ョックを受けたのは、他に原因があった。少なくとも、姉の夫に何時の間にか 魅せられてしまい、その顔を見るのが辛いわけでは絶対に無い。今でも彼女の 理想はスラリとした長身で細味の優男であり、宗旨変へした姉とは異なり、間 違っても常男タイプの男に心を揺さぶられる事は無かった。 (冷静に… 落ち着いて… 気取られたら駄目よ! ) リビングに通じるドアは開け放たれているから、加奈子はバッグを抱え込んだ ままで中へと足を踏み入れた。 「あっ… カナちゃん、ありがとうね。ほんと、急にお願いしちゃって、申し 訳ない」 他所行きの小洒落たスーツを着込み、ばっちりと化粧を整えた芳美が小首を傾 げてイヤリングを耳に取り付けながらリビングへと顔を出す。 「冷蔵庫の中に麦茶があるから、悪いけれど自分で出して飲んでちょうだい。 電車の時間まで、もう間が無いのよ」 彼女等の従姉妹の結婚式に招かれたのは本当は両親夫婦だったのだが、父親が 急性盲腸炎で入院してしまった為に、急きょ両親のピンチヒッターとして姉夫 婦が駆り出される事に成ったのだ。 「いい、ペルは◯×フーズの金色のラベルの白身魚と海老、それからマーズは △◇キャットのイカとおかか、赤と青のラベルだからね。それから、猫トイ レの砂はこまめに見てあげてね。とくにペルは神経質で砂が汚れていると、 他でオシッコしちゃうから」 加奈子が呼ばれたのは、姉夫婦が可愛がっている2匹の猫の世話の為だ。地方 で暮らす従姉妹の結婚式の為に、二人は一晩マンションを開けて出かける事に 成ったのだが、この春に知人から譲り受けた2匹の子猫の面倒を見る者が必要 と成り、隙な加奈子に召集が掛けられている。 「それで、お父さんの具合はどうなのよ? 」 両方のイヤリングを付け終えた芳美は、小旅行に持って行くハンドバックの中 身を点検しながら妹に問いかける。 「来週には退院するみたいよ。土曜日だから義兄さんに車を出して欲しいって 伝えてくれってママに言われたわ」 冷蔵庫から冷えた麦茶の入ったボトルを取り出して、綺麗に磨かれたグラスに 注ぎ込みながら、加奈子は母からの伝言を世話しなく動く姉に伝える。 「えええ? 土曜日は常男さんと映画に行こうって相談していたのに… まい ったわね。あっ、そうだ! ねえ、常男さん。電車の切符はどこに置いたか しら? 見当たらないのよ」
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