「ここ… ここなの? こんなに大きな御屋敷だなんて… 」 指定された住所は確かに間違いは無い。それに表札にもしっかりと「神野」と 記されてはいるのだが、それでも幸代は疑って、何度も表札をメモを見比べて 小首を傾げてしまうのだ。 (ほんとうに、こんな大きな御屋敷に住んでいるの? あの獣は? ) 三浦幸代は、いくら東京都下と言っても広大である屋敷の門の前で驚き、しげ しげと奥に鎮座する白亜の豪邸を眺めてしまう。 (どうする? 訪ねるの? それとも、このまま引き返す? ) 予想を大きく上回るスケールの邸宅を前にして美貌の若妻は畏怖して尻込みし ていた。彼女が進一と出会ったのは実はテレクラである。と、言っても進一が テレホン・クラブに通っていたわけでは無く、彼の悪友の一人が獲物を求めて テレクラに出ばって網を張っていた所に、まんまと幸代が引っ掛かったのだ。 忙しい夫にかまって貰えない若妻は暇を持て余していて、興味本意で関わった テレホン・クラブ遊びにはまっている。 しかし、世間知らずな上に度胸も無い美人妻は、けして相手の誘いに乗って出 かけた事は無く。隙な昼の一時に見知らぬ相手と電話での会話で疑似恋愛的な 行為を楽しむのに止まっていた。まったく人生において関わり合いの無い男達 を相手に夫に対する愚痴をこぼし、なんとか彼女をおびき出そうと試みる馬鹿 な男にちやほやとされる会話だけで十分に暇つぶしを楽しんでいた彼女が、そ の禁をあの時に破ってノコノコと街へと誘き出されてしまったのは、やはり進 一の影響力によるものだ。彼女は豪邸を見つめながら数カ月前の出会いを思い 出す。
「ええ? 進一さんて、あのピアニストの神野進一? 」 意外な名前を耳にして、受話器を持つ幸代は声を大きくする。 『そうさ、彼奴は俺の大学の同級生なんだよ、ユキヨさん』 いつもの様に昼下がりに手早く洗濯を済ませてしまい時間を持て余した事から 、悪癖と知りつつもテレクラへと電話した彼女の今日の相手は大学生だと名乗 り、その会話の軽妙洒脱な面白さが彼女を安心させている。 「私、ファンなのよ、神野進一の… ほら、この間の渋谷公会堂のコンサート も、行こうかどうか悩んだくらいだもの」 マスコミで派手に取り上げられている新進気鋭のピアニストの端正な面影を思 い出しながら幸代は興奮して捲し立てた。 『へえ… そんなら、今度合コンに来ない? 彼奴、海外ツアーの前に、一度 みんなで飲もうって言ってるんだよ。よかったらユキヨさんも招待するよ』 男の誘いに心を揺るがす若妻だが、まだ今知り合ったばかりの若者を信用して 良いものか悩んでしまう。 「でも… やっぱり… 」 本当だとすれば非常に惜しい話だが、まったくデタラメであり彼女を呼び出す 口実に過ぎない可能性を懸念して、幸代は後ろ髪を引かれる思いながらも断ろ うとする。 『あっ、そりゃあ、すぐには信用できないよね。それなら、家の電話じゃ無く て携帯のメアドを教えてよ。今日中に進一からムービーメールさせて誘うか らさ。ちなみに、俺の携帯の番号は◯◯◯◯… だよ』 若者の誘いに、まあ、メアドくらいは良いかと、彼女は短絡的に携帯電話のメ ールのアドレスを伝えてしまう。 『おっけ〜、了解了解、遅くも明日には進一からメッセージ付きのムービーメ ールを送るからね。あっ、ちなみに俺の名前は広田良雄だから、憶えておい てよ、ユキヨさん。それじゃ、連絡まっててね… 』 なんと、これだけ喋ると、相手の方から、電話を切る気配がするではないか! あっさりとした態度に真実の臭いを嗅ぎ取り、かえって幸代の方が慌ててしま う。 「ちょ、ちょっと待って! もう一度、えっと… ヒロタくんの携帯の番号を 教えてくれない? さっきメモらなかったの」 慌てて手近の広告を裏返してから、ペンを手にした幸代の耳に若者の軽妙な言 葉が流れ込む。 『ヨシオでいいよ、ユキヨさん。それじゃ、携帯の番号をもう一度言うよ、◯ ◯◯◯… それじゃ、進一からの連絡を楽しみに待っててね』 電話が切れた後に、幸代は期待で胸を膨らませて携帯電話を抱き締めた。彼女 に吉報が届いたのは、その4時間ほど後の事だ、そろそろ夕食の買い物に出か けなければ成らないと気を揉んでいた幸代の携帯がメールが届いた事を知らせ る軽やかなメロディを奏でた。 慌てて携帯を操作っすると、小さな画面の見知らぬ若い男の顔がアップに成っ た。 『こんちわ! 幸代さん。俺、良雄! そんでもって、こっちが… 』 良雄の姿が消えて画面の背景が流れた後に、間違い無く、あの神野進一が微笑 んで彼女を見ているではないか! 『こんにちわ、えっと… ユキヨさん。神野です、図々しいお誘いですけれど 、よかったら合コンしませんか? お返事待ってます』 最近は度々テレビにも取り上げられているし、何よりも彼のピアノのファンで もあった幸代にとって、見間違えるはずもない神野進一からの誘いは彼女を有 頂天にする。新進気鋭の天才ピアニストが、自分を合コンに誘ってくれるなん て、ゆめでは無かろうかと心配する程に、あの時の彼女は興奮したものだ。 3度メールを再確認した後に彼女は溜息を漏らして携帯を閉じると、そっとテ ーブルの上に置いてから、あわてて寝室へと駆け込んだ。クローゼットの扉を 開けて、あれこれと着て行く服を吟味する幸代は完全に舞上がり、もう他の事 など考える余裕は無くなっている。 (あの、神野進一と会えるなんて… こんなラッキーがあって良いのかしら? うふふ… 嬉しい) 機械部品のセールスマンである夫は出張が多く不在がちな上に、ハードな仕事 に疲れ果てて帰宅しても寝てばかり、しかも稀な休日には始めたばかりのゴル フへ出かけてしまう毎日だから、まるで未亡人かメイドの様な生活を強いられ て、幸代の不満は爆発寸前なのだ。 (経済的に問題が無いからって、妻をこんなに蔑ろにして良いと言う理屈は無 いわ! こんなに酷い扱いをされているのだから、私だって少しくらい楽し んでもバチは当らないでしょう) 合コンの末に、進一と個人的に付き合う妄想に浸りながら、幸代は鼻歌混じり で次々と洋服を取り出しては躯に当てて晴れ着を選ぶ。彼女の妄想はやがて現 実のものと成るのだが、その形は大きく幸代の想像を逸脱するのだ。
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