村の掟 前編(1.15)
その1

 

 

 

 

吉岡隆弘は浮かぬ様子でホンダの小型車のステアリングを握っている。だが、気

乗りしないドライブに付き合っている新妻の真弓は彼に輪を掛けて不機嫌そうな

顔をして横を向き、流れ去る高速道路の側壁を睨み付けていた。彼等が華燭の宴

を終えたのは、ほんの半年前のことである。世間でも底々に名の知れた有名私立

大学を出た彼は、財閥系の理化学開発機関へ研究員として就職している。

特殊なバイオ技術の開発に携わるグループの一端で、充実した研究を続けていた

若き化学者は、同僚のセットした合コンで真弓と知り合っていた。彼と同じ大学

の文科系学部の出身である真弓は、親のコネを頼りに私立高校の英語の教師の職

にあり、意気投合した二人はすぐに男と女の仲に成っている。真弓の両親にもい

たく人柄を気に入られた隆弘は、どちらかと言えば積極的だった彼女に引き摺ら

れるように結婚を承諾していた。

都内の一等地近くに新居と成るマンションを構えた二人の新婚生活は、つい最近

までは順風満帆であり、将来に何の憂いも見当たらぬ完璧な幸せの雰囲気が漂っ

ていた。しかし…

「いつまでも膨れっ面はやめてくれないか、真弓」

「別に怒ってなんていないわよ! 」

取りつくしまの無い妻の態度に、隆弘は暗澹たる思いを胸の中で押しつぶす。事

の起こりは夏休みの過ごし方に対する見解の相違だった。新婚旅行でヨーロッパ

を回った彼等だったが、真弓は夏休みにはハワイかグァムのリゾートホテルで過

ごすつもりで、旅行のパンフレット等を集めていたらしい。だが、新妻のささや

かな願いは、ある晩の隆弘の無情な一言で握り潰された。

「夏の休みには、俺の実家に行くよ」

夕食の最中に夏休みのプランを持ち出して浮かれる妻に向って何気なく語った一

言から、新婚家庭には冷やかな空気が吹き荒れた。しかし、万事に付いて押しの

弱い隆弘だが、この夏の帰郷については頑固に譲る事が無かったから、夫と成っ

た男の意外な一面を見せつけられた様に感じながらも、真弓は不承不承で頷くよ

り手立ては無かった。

結婚前にも何度か訪れた事もある夫の実家は、最寄りのJRの駅から車で1時間

以上も掛かる山間の田舎町であり、貴重な夏の休暇を過ごすには余りにも寂しく

侘びしい。常夏の異国の海岸でトロピカル・ムードを満喫しようと考えていた真

弓にとって、素直で優しい夫の突然の造反は見逃し難い出来事である。

(誰が機嫌をなおしてやるものですか! まったく、このわからずや! )

仏頂面の妻を持て余している隆弘に対して彼女は胸の中で何度も毒付き、顔を逸

らして窓の外の光景を眺めていた。もしも、彼女がもう少し冷静であったならば

、夫の態度が普段に比べておかしな事に気付いただろう。しかし、楽しい夏のバ

ケーションの計画を台無しにされた妻は、隆弘のふさぎ込む様な逡巡の表情を自

分に対する負い目と誤解して、わざと無視していたのだ。一方、膨れっ面の妻を

持て余していると思われた隆弘は、ハンドルを握りながら心ここに非ずと言った

風情で高速道路を飛ばしている。

(ほんとうに、これでいいのか? これしか方法は無いのか? こうしなければ

 、いけないのか? )

彼は胸中で何度も自問自答を繰り返すが、納得する答えは見当たらない。思い余

ってナビ・シートに納まる妻を見れば、わざと彼と視線を合わさぬ様に、そっぽ

を向いて無視を決め込んでいる。

(そうか、やっぱり… やっぱり掟には従わなければ成らないのか? でも… )

思い乱れる夫の胸の内など思い計る事も無い美しい新妻を乗せた車は、これから

の苛烈な運命を知らぬ真弓を乗せて、ひたすら隆弘の故郷を目指してひた走った。

 

 

「御馳走様でした… 」

「田舎なもんで、口に合ったらうれしいけれど… お粗末様でしたねぇ」

義母の素朴な語り口での謙遜に、真弓は大袈裟にかぶりを振る。

「いいえ、義母さま。とっても美味しかったですわ」

たとえ好んで訪れた夫の実家では無いにせよ、わざわざ義母との関係を悪化させる

事も無いから、真弓はきっちりと猫を被って夕餉を済ませている。夫の隆弘は、彼

と同様に寡黙な義父と一足早くに食事を終わらせて、さっさとテーブルを離れると

縁側に陣取り義父の趣味である将棋の続きに没頭していた。

(まったく! 義母さまと2人きりにしないでよ! 共通な話題なんて無いんだか

 ら! )

心の中で気ばたらきの足りない夫を毒づきながら、食事を終えた義母がお茶を飲み

干した所を見計らい、真弓は後片付けを手伝う為に食卓の皿を纏め始める。

「あら、いいのよ真弓さん。妙子が片付けるから」

「はい… でも… 」

義母の声を聞き付けたのか? お手伝いの妙子が台所から姿を現して、食事の後始

末に取り掛かる。やや生活のやつれを感じるが自分よりも2〜3才上であろうお手

伝いの女性を見て、真弓は恐縮しながら汚れた食器を手渡して行く。手広く養鶏業

を営む隆弘の実家は裕福であり、妙子の他にも数人の手伝いが家を切り盛りしてい

るようだ。彼女等の仕事を邪魔するのも気が引けた真弓は、黙って妙子が食卓を片

付けるのを見守った。

「本家の御隠居も、ほんとうにしっかりとした嫁だって誉めて下さったのよ、真弓

 さん」

義母の言葉に彼女は村の神社に隣接された、一際古く大きな御屋敷の事を思い出す

。田舎に戻った隆弘は何故か実家に顔を出すよりも先に、真弓を連れて御屋敷を訪

ねていた。立派な庭園を望む大広間に通された彼女は、そこで齢80にも成ろうか

と思う老人と、50代と見られる恰幅の良い中年男に対面している。いきなりの事

で面喰らった真弓だが、そこは教師として培った外面の良さをフルに発揮して、楚

々とした新妻を演じて見せていた。屋敷を後にしてから夫を問いつめると、村の実

力者の親子であると、そっけない説明があった。

(なによ隆弘の奴、不機嫌な顔して、ちゃんとした説明も無しでこんな所に連れて

 くるなんて! もい良いわよ、そっちがその気なら絶対に私の方から機嫌を取っ

 てあげたりしないんだから! )

夫の仏頂面の意味を取り違えている新妻は、意地に成って隆弘を無視するように心

掛ける。

 

その夜はあてがわれた寝所に戻っても、結局彼女はほとんど夫と言葉を交わす事も

なく、さっさと床に付いてしまった。長く車に揺られて来た上に、夕食時に義父に

勧められたビールの酔いも手伝って、真弓はぐっすりと寝込んでしまう。だから、

真夜中過ぎに夫が床を離れて部屋を出て行った事には、まったく気付なかった。

 

 

 

 

 


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