その2

 

 

 

 

隆弘は寝入っている妻を起さない様に細心の注意を払いながら家を出た。エン

ジンをかける音を気付かれぬ為に、わざと車は家から離れた場所に停めている

。彼は明かりの乏しい田舎道を、何度も家の方を振り返りながら下唇を噛み締

めて車へと向う。

「いよぅ、タカ坊」

いきなり車の脇の一本杉の影から出て来た男の呼び掛けに、隆弘は表情を曇ら

せる。

「輝夫か? 」

幼馴染みで中学までは机を並べて勉強して来た輝夫の笑顔を見て隆広は憮然と

した顔を見せた。

「そんなに邪険にするなよ。お前の女房は美人だな、まあ、後はしっかりと村

 の衆に任せておきな」

輝夫の台詞が耳に痛いのか、彼は無言のままで幼馴染みを押し退けると、シビ

ックのドアを開けて運転席に乗り込む。

「上手く事が進んだら、ちゃんと連絡してやるからさ。そんなに心配するなよ

 。他所者の嫁はお前の女房が初めてってワケじゃないんだぜ」

ずんぐりとした体型で、わらうと目が隠れてしまう程の細い瞳を光らせて、輝

夫が陽気な言葉を投げ掛けた。

「掟じゃ無ければ、誰が真弓を連れて戻ってくるものか! 」

吐き捨てる様な台詞を幼馴染みに投げ付けた隆弘は、無念の形相のままエンジ

ンを掛けると、急いでシビックを発進させた。

 

 

 

「あら? 」

長旅の疲れからか、すっかりと寝坊した真弓は目覚めても自分が何処にいるのか

分からずに呆然と成った。持参したパジャマ姿で馴染みの無い寝床の上でしゃが

み込む彼女は、ようやく自分が夫の実家を訪れている事を思い出して、隣に有る

からっぽの夫の寝床を凝視する。

(なんで起してくれないのよ! 隆弘のバカ! )

慌てて立ち上がり身繕いを済ませた彼女が気まずい思いで居間に行けば、義母は

笑顔で迎えてくれる。

「あらあら、起きたかい? それじゃ朝餉にしましょう」

「あの… 隆弘さんは? 」

てっきり居間にいると思った夫の姿が見えない事から、真弓は当惑して義母に問

い質す。

「ああ、隆弘なら朝早くに東京から電話があって、一旦会社に戻ったのよ」

「えええ! 」

余りにも身勝手な夫の行為に、真弓は印象的な瞳を見開き絶句する。結局、気の

良い義母に勧められるままに朝御飯を済ませた彼女は、すぐにあてがわれた部屋

に戻って携帯で隆弘へ連絡を取ろうと試みた。しかし、何故か彼の携帯は通話不

能なのだ。義母の話ではすぐに戻って来るとの事だが、それにしても、いくら急

な呼び出しとは言え、自分に何もことわる事無く田舎に放り出した隆弘の態度に

彼女は激怒する。

(タクシーを呼んで、一人で帰ろうかしら? )

無責任に自分を置き去りにした夫へ対するあてつけを考えた彼女だが、ここで事

を荒立てるのも何とも大人気なく思えたから、携帯電話をしまいながら大きく一

つ溜息を吐いて我慢する。肝心の夫が不在では、これといった観光地も無い田舎

町で、たちまち彼女は暇を持て余す。

持参した文庫本を読んで昼まで時間を潰した真弓は、昼食の後には義母にことわ

って散歩に出て見た。果実園らしき畑が広がる山あいの田舎町だから、見るべき

ものは多くは無い。どこにでもある古ぼけた神社や、おそらくは小学校と思われ

る木造2階建ての古びた建物などを一通り見れば、もう町外れまで辿り着いてし

まう。

(コンビニどころか、本屋も喫茶店も無いのね。車が無ければ本当に陸の孤島じ

 ゃない)

改めて田舎町に放置された事を思い知った彼女は、憤慨しながら鋪装もされてい

ない狭い道を歩いて行く。

(それに、なによ、あの連中の目… まったく、いやらしい)

彼女はたまに出会す村の男達の視線が妙に気に触っている。最初は自意識過剰だ

とも思ったが、明らかに村の衆の視線は彼女を舐め回す様に上から下までねっと

りと遠慮も無く見るのだ。すれ違った後でしばらくしてから、仲間同士で何かや

りとりをして馬鹿笑いする連中と何度か行き会った後、彼女はこの村に対してぬ

ぐい去る事の出来ない嫌悪感を抱くに至っている。

都会育ちの彼女は行き交う人々の間の暗黙の了解である無関心のルールがまった

く通用せず、まるで見世物の様な扱いを受けるこの村が、とうてい我慢成らない

(最低ね! 何もかも最低! まったく隆弘の奴、こんな下品な場所に私を置き

 去りにするなんて… 信じられない! )

時々すれ違う村の男達の無遠慮な視線を単なる礼儀知らずと軽く考えていた彼女

は、この先に降り掛かる災難を知る由も無く、手持ち無沙汰なまま夫の実家へと

戻っている。幸いと言って良いのか? 義父と義母は寄り合いがあるとかで、一

足先に食事を済ませて出かけていた。話題がまったく噛み合わぬ中で、気まずい

夕食の席を予想していた真弓は内心で安堵の溜息を漏らしながら、女中の妙子の

給仕を受けて食事を済ませる。

「寄り合いの後は、たいていは宴席に成りますから、奥様は先に休んで下さいと

 大奥様からの御言付けです」

一瞬奥様とは誰の事か分からずにポカンと女中の顔を見つめてしまった真弓だが

、合点が行くと慌てて箸を休めて頷く。

「えっ… あ、はい、わかりました」

ひとりぼっちだと、とても広く感じる昔風の居間で手早く夕食を済ませた真弓は

、女中の妙子に促されるまま風呂につかり、義理の両親が不在な事から、草々に

パジャマに着替えて当てがわれた部屋へと戻っていた。

「まあ、蚊帳? 」

昨日は暑さで寝苦しい思いをした彼女は、部屋の中央に釣り下げられた古式ゆか

しい納涼寝具を見て思わず頬を緩める。テレビドラマでしか見た事の無い道具を

興味津々で眺めていた真弓に、部屋の外から声が掛けられた。

「失礼します、奥様。よろしいでしょうか? 」

「はい、どうぞ」

妙子が持参した見なれぬ瀬戸物に真弓は目を奪われる。

「あの、妙子さん、それは? 」

「はい、蚊よけの香でございます」

蚊帳の頭の部分に置かれた香炉からは薄い煙りが一筋立ち昇り、何とも言えない

優美な雰囲気を醸し出している。

「多少匂いがしますが、お気に触りますでしょうか? 」

妙子の問い掛けに、真弓は首を横に振る。

「いいえ、大丈夫ですよ」

言われてみれば確かに仄かに香る煙りは漂うが、それはけして不快な代物では無

い。それに蚊帳の中で香のかおりに包まれて眠る経験など、都会育ちの彼女には

とても珍しい事だから、一晩くらいは楽しんでも悪く無いと思っている。

「それでは、おやすみなさいませ、奥様」

「ええ、ありがとう妙子さん」

女中が部屋を出る頃には、真弓は猛烈な眠気を感じて大きく欠伸をしてしまう。

(あれ? 今朝あんなにゆっくりと寝たのに、もう眠いの? やっぱり、慣れな

 い土地だから緊張して疲れているのかしら? )

まだ宵の口にも関わらず、もう瞼が重い美人妻は生理的な欲求に逆らう事もなく

床に付き、ものの数秒後にはやすらかな寝息を立て始める。あまり寝つきの良い

方では無い彼女にとっては珍しい寝入りだった。

 

 

 

 


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