「でも、良かったのかしら? 喪主の私が先に抜けてしまって… 」 BMWの助手席におさまった美女は、憂いを込めた瞳で孝昌を見つめる。 「いいんですよ。あそこに残った連中は、あのホテルに泊まって、明日帰る奴等 ばかりでしょう? そんな酔っぱらいの爺婆の繰り言に付き合っていたら、こ ちらの身が持たないですからね」 入学祝いにせしめた新車は、スムーズに夜の街を流れて行く。かねてより憧れ だった牧子と、ようやく二人きりに成れた事で、法要からの帰り道にも関わら ず、思わず鼻歌が出そうな程に孝昌は上機嫌だ。 「それに、親族連中に付き合うオヤジも、結局あのホテルに泊まって行くだろ うし、明日に成れば本宅にも戻らず、そのまま東京の女のマンションに直行 だから、なにも牧子さんが付き合う事なんて無いですよ」 二人の兄は寄り付かず、母と姉も地方での演奏旅行に忙しく、父親は無聊を慰 める為に、これまた都内に囲った愛人のマンションに入り浸りとくれば、孝昌 が育った地方都市にある大豪邸は、住み込みの使用人らが持ち主の留守を守る ばかりだ。 もちろん、孝昌にしたところで、たとえこの先に大学が春期や夏期の長期休暇 に入ったとしても、いま根城にしているマンションのペントハウスを離れて実 家の邸宅に戻るつもりは更々無い。特に夏場にはサーフェインやスキューバー ダイビングなど、マリンスポーツに忙しい事が予想されるので、不便な田舎に 戻るのは疎ましい。 「あら? 雨かしら? 」 牧子の言葉通りに、BMWのフロントグラスに見る間に水滴が増えて行く。 「よかったよ、昼間に降られていたら、お墓で難儀でしたからね」 彼女の問いかけに応じて、孝昌が口を開く。ちらりと横を窺えば、牧子はゆっ たりと座席に寄り掛かり、虚ろな瞳で流れ去る夜景を眺めている。水滴のせい でネオンや街灯の光が乱反射して、美しい叔母の頬や黒髪、そして喪服を彩る ので、幻想的な光景を目の当たりにした孝昌は少しアクセルを緩めて、この幸 せな一時がちょっとでも長く続けば良いと願っている。 だが惜しい時程、時間と言うやつは駆け足で過ぎてしまうものだ。小一時間程 は走っているのだが、彼がハンドルを握るBMWは、孝昌にとっては瞬く間に 目的地に到達してしまう。車の免許を持たなかった叔父だから、自宅のカース ペースはがら空きだ。雨の勢いの強まった事を考えて、孝昌はBMWを故人と 牧子が暮らしていた家の車庫に頭から突っ込んだ。運転席から機敏に離れた若 者は雨の中をトランクまで走り、常備している傘を取り出してから改めて助手 席に回り込み、喪服姿の若い未亡人に傘をさし掛けた。 「あら、ごめんなさいね、孝昌くん」 9つ年下の義理の甥の気遣いが嬉しかったのか? 牧子は儚気な笑みを浮かべ て礼を述べる。 「いえ、そんな… 」 街で軽薄な女をナンパする時には心にも無いお上手を連発する若者であるが、 理想的な美女を前にすると、常に口が重く成る。喪服が濡れない様に気を付け ながら、孝昌は彼女を家の玄関まで送って行った。 「それじゃ、僕は、これで… あっ、なにかあったら電話下さい、いつでも駆 け付けますからね、牧子さん」 本当は上がり込んで、もう少し話をしていたいと思ったが、昼間からの一連の 行事で疲れている牧子であろうから、ここは己の欲求をぐっと堪えて、若者は 玄関先で失礼する気持ちを告げた。 「あら? そんな事を言わないで、上がってお茶でも飲んでいってちょうだい」 「いえ、お気持ちは嬉しいですが、牧子さんも疲れているでしょう? 今夜は 失礼しますよ」 一礼して振り返り、再び傘をさそうとした若者の腕を、なんと牧子が捕まえた。 「ねえ、お願い、少しで良いから寄っていってよ。いいでしょう? もう真っ 暗だし、雨も降っているし… 」 何か頑な決意を感じる眼差しを向けられたならば、孝昌の決意は瞬時に瓦解す る。ようやく四十九日の法要を終えたばかりの未亡人の寂しさを思ん計った若 者は、それならばと頷き、促されるままに家に上がり込む。 「あの、本当にお構いなく、すぐに失礼しますから… 」 内心では、こんなに親し気に頼られたのが嬉しくてたまらない孝昌だが、ここ で上機嫌なところを見せるのもヘンだと思い、懸命に落ち着いているふりをす る。 「御免ね、我侭を言って引き止めてしまって」 湯気の揺れるコーヒーカップを2つ御盆に乗せた美しい未亡人は、喪服を着替 える事も無く彼にカップの一つを手渡した。彼女を目当てに足繁く生前の叔父 の家を訪ねていた若者は、見慣れた応接間のソファに陣取り、熱いコーヒーに 唇を付ける。再び叔母が席を外したことから、彼はカップを片手に室内を改め て見回した。 (あれ? なにかヘンだな… えっと、なんだ? あっ! そうか! ) 余り広くは無い洋間を眺めて、彼は違和感の原因を思い付く。 (絵が無いんだ。叔父さんが描いた絵が、全部外されているや) 自称前衛芸術家であった生前の叔父がせっせと描いては自宅の洋間に飾ってい た珍妙な絵画類が片付けられていた事で、若者は何か奇妙な感じを受けている 。ほどなく戻って来た喪服姿の牧子に目を向けて、あらためて若者は若い未亡 人の艶っぽさに見とれてしまう。 「あら、どうしたの? 孝昌くん」 一瞬、魂を落っことした様に呆然と成った若い甥を見て、牧子は怪訝な顔をし た。 「あっ… いえ、その、えっと… そうだ! あの、絵をね、片付けたのです ね? 」 ようやく我に戻った若者は照れ隠しの為に、わざと話題を摺り替える。 「ええ、そうなの。主人の作品を見ていると、彼を思い出してしまって、今は 辛いのよ」 不用意に故人を思い出させてしまう様な台詞を口走った事を悔やんでも後の祭 りだ。悲し気に目を伏せた美しい叔母を見て、孝昌は大いに慌てる。しかし、 喪服には似合いの儚気な表情の美女を見ると時や場所柄なども弁えずに、彼の 邪な欲情が沸々と沸き上がってくる。
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