その6

 

 

 

『やあ、サカモト、これから行くよ』

まさかの人物からのマサカの言葉に、良輝はヤカンの把手を持ったまま台所で固まっ

た。

『あれ? もしも〜し… サカモト、聞こえている? ねえ、サカモトってば! 』 

「もっ… もしかして、千草さん… かな? 」

動転した若者は、何度か呼び掛けられたことでようやく己を取り戻して、震える声で

応対する。

『大当たり! これからそっちに行くから、待っていてね』

「あっ、あの、こっちって、何処さ? まさか… アレ? おい、もしもし… もし

 もし… もしもしってば! もしも〜〜〜し」

言いたい事を喋り終えると、さっさと純子は携帯を切ってしまった様だ。一方的に通

話が途絶えてしまった事から、良輝はヤカンを手にしたまま途方に暮れる。

「来る? 来るって? ここに? 俺の部屋に? 何しに来るんだ? 」

 

コーヒーを飲む事を諦めた若者は台所から自分の部屋をぐるりと見回す。この数日は

鬱々と過ごして来た事から、気晴らしの為にせっせと部屋の整頓を行っていた事もあ

り、見渡す2LDKの部屋は男子学生の一人暮らしにしては片付けられている方であ

ろう。さて、どうしたものかと首を傾げる若者の耳にチャイムの音が飛び込んで来た。

「えっ? まさか、もう来たのか? 電話を終えてから、まだ3分とは経っていない

 ぞ」

訝しみながらも良輝は、台所の脇の玄関の扉を半信半疑で開いた。

「やあ、元気? 」

「げっ… 元気って? いったい何処から電話をしたんだ? 千草さん」

小さなスポーツバックを小脇に抱えて愛想よく登場した宿敵に、若者は強張った顔で

問い質す。

「えっ? ああ、電話? アパートの前よ。いきなり押し掛けても良かったけれども

 、ほら、サカモトがえっちなDVDを見て一人でお楽しみの最中だと、お互いにバ

 ツが悪いでしょう? だから電話してあげたのよ」

いきなり秘密の一端を臭わせる純子の言葉に、若者は玄関先で大いに慌てる。

 

「ま、まあ、立ち話もナンだから、もしも、いやで無ければ上がってお茶でも飲んで

 行ってくれないかい? 」

「うん、最初からそのつもりよ、お邪魔します」

学生とは言え、男の一人暮らしの部屋に純子は躊躇う事も無く上がり込む。ダイニン

グに置かれたテーブルセットの椅子を見事に無視した美女は、居間の2人掛けのソフ

ァに歩み寄り、そのまま勝手に腰掛ける。

「えっ… えっと、コーヒーと紅茶は、どっちが好きかな? あっ、コーヒーはインス

 タントだし、紅茶は国産のティーパックなんだけれど… 」

「それも悪くないけれど… 」

若者の問いかけに美女はにっこりと微笑みながら、不意に彼から視線を外す。

「大きくて立派な冷蔵庫よね。この中にビールは冷えていないのかしら?」

「びっ… ビールって? 千草さん、いける口なのかい? 」

普段の教室ではお固いイメージの彼女にそぐわぬ台詞を聞いた良輝は、あわてて戸棚

からグラスを取り出して、冷えた缶ビールと共に居間のロー・テーブルの上に持って

行く。

 

「あっ、コップはいらないわ。ありふがとう。わぁ、発砲酒じゃ無いのね、このお金

 もちめ」

手慣れた様子でプルトップを開くと、純子はノドを鳴らして美味しそうにビールを煽

る。付き合い上、自分だけコーヒーと言うのも変だから、彼も冷蔵庫からもう1本ビ

ールを取り出して来た。

「あの、お腹減っていないかい? ピザでも取ろうか? 」

何と切り出して良いのか分からぬ良輝の申し出は、いつもの台詞で却下される。

「ピザなんて、もったいない。冷蔵庫の中に何かないの? 」

戸惑う若者を置き去りにして、彼女立ち上がりは台所に戻って行く。

「あら、結構いろいろな食材はあるじゃない。私が何か作ってあげるから、大人しく

 待っていて」

呆気に取られた良輝を放ったままで、彼女はフライパンを火に掛けた。

 

 

「ごちそうさま」

純子の手料理を綺麗に平らげた若者は、両手を合わせて頭を下げる。

「うん、結構美味しかったでしょう? まあ、あの材料ならば、こんなモノよ」

お好み焼きの一種に近い彼女の手料理は文句なく美味だったから、良輝は黙って頷き

同意を示す。彼もアルコールに弱い方では無かったが、純子も中々の蟒蛇で、すでに

彼等の前には缶ビールでは無く焼酎のロックのグラスが並んでいる。

「あんた、このあいだ、縛られて悦ぶ女なんて現実にはいないって言っていたよね? 」

ビールを二缶空けてから焼酎に移った純子は、目もとをほんのりと紅く染めて問いか

ける。

 

「ああ、言ったよ。俺はファンタジーは大好きだけれど、空想と現実をゴッチャにし

 て語るつもりは無いからな。あれはあくまで絵空事、それぐらいは俺だって分かっ

 ているさ」

アルコールのせいで饒舌に成った若者は、いつもよりも楽な気分で受け答えしている。

「満更、そうでも無いのとちがうかしら? 案外に何処にでもいるかもよ。その… 

 マゾっぽい子は」

「なんだよ、心当たりがあるのかい? それならば、是非紹介して欲しいもんだよ。

 どんな子なのか、お目にかかってみたいものだぜ」

売り言葉に買い言葉的ではあるが、不意に純子が真顔に成るから多少彼も慌ててしま

う。幾分引き気味と成った若者の前に彼女は前のめりに成り顔を突き出す。

「見てみたいってて… もう見ているじゃないの。ほら、こんな顔をした女よ」

彼女が発したとんでもない台詞を聞いて、良輝は焼酎のグラスを手に固まった。

「じょ… 冗談だろう? あっ… あは… あはははははは… 」

混乱した若者の乾いた笑い声が部屋に響く中で、彼女は思わせぶりな笑みを浮かべる。

 

「あら、そう思うの? ならば、試してみたらどうかしら? 」

本心なのか? それともからかっているのか? 判断のつけられない若者を他所に、

彼女はさっさと立ち上がる。

「あの、どうしたの? 」

「だって試すならばほら… シャワーを借りるわね」

意外な展開に置き去りにされた良輝は、ただ風呂場に向かう美女の後ろ姿を見送る

より他に手立ては無かった。

(どっ… どう成っているんだ? おい、まさか、でも… いや、う〜〜〜ん)

中途半端な酔いなど吹っ飛ぶ純子の行動を見て、若者は胡座をかいたまま呆然と成

り居間にひとり残された。

 

 

 


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