その3

 

 

 

「おはようございます」「おはようございま〜す」「おはようございます、土曜日

 はごちそうさまでした」

いつもの様に1ブロック先のスタバで買い求めたコーヒーを手に出社した咲和子に

、2課のメンバーが明るく朝の挨拶を投げかけて来る。その中には、もちろん一番

の下っ端の加藤の挨拶も混じっているので、彼女の笑みも引き攣りがちだ。

 

「おはよう」

窓際のデスクに歩み寄り、日経の朝刊とコーヒーカップを置いた咲和子は、それと

なく通路に一番近い下っ端の若者に目を向けた。しかし、彼女の動揺とは裏腹に加

藤はノートパソコンの画面に集中していて、命じられた基本的な資料作りに没頭し

ていた。黙って帰った後ろめたさもあり、なんとも咲和子は落ち着かない。通常な

らば、フロアの少し離れた場所から未練ありげな視線を送って来る元の不倫相手の

気配が鬱陶しいのだが、今日の彼女は切り捨て別れた男の存在など完全に忘却して

いた。

 

(いったい、どんな流れで加藤と寝る事になったのか? 状況を聞いておかないと

 マズイけれど、何と切り出してよいものやら? )

机に届けられていた決裁を待つ書類にうわの空で課長印を押しながら、おそらくは

情熱的な一夜を共に過ごしたであろう若者を漫然と咲和子は眺めていた。さすがに

節度と言う言葉を知っているのか? 自分の部屋で一晩を過ごした女課長に対して

加藤は会社ではまったく馴れ馴れしい態度を見せない。

 

これまでと何らかわりなく仕事に取り組み、ミスを糾弾する咲和子に平身低頭で謝

る若者だから、2課の社員は誰も咲和子と加藤のアクシデントに気が付く様子は無

かった。加藤が何のリアクションも見せない事から、あの夜の事を問い質す切っ掛

けが掴めぬまま日々の業務の忙しさにかまけて、咲和子は若者に問いかけることを

躊躇い続けた。

 

(一度抱いたくらいで馴れ馴れしくされるのも困るけれど、こんなにノーリアクシ

 ョンと言うのも何となく腹が立つわよね)

それまでとまったく変わらぬ態度の加藤への対応に苦慮しつつ、仕事の忙しさに押

し流された咲和子は遂に次の週末まで何も出来ずにいた。

 

(いかんいかん、このまま有耶無耶にも出来ないわ)

ぐずぐずしている間に一週間が流れ過ぎて明日に休日を控えた土曜の退社時間近く

に成った時に、意を決した咲和子は席を立ち人気のない会議室に向かう。静かな部

屋の中に足を踏み入れた彼女は慎重に辺を見回してから壁掛型の内線電話の受話器

を取る。数秒後、パソコンに向かい悪戦苦闘中の加藤の目の前の電話が鳴った。

『はい、加藤です』

『私よ、返事はハイかイイエだけ、質問も無し! 黙って言う事を聞きなさい。8

 時にBAR◯◯で待っているから来てちょうだい。場所は◯◯丁目、会社の最寄

 り駅から◯◯線の二駅先で下車、駅前の8階建ての雑居ビルの地下、歩道にも看

 板を出してあるから迷う事は無いわ。いいわね?』

『あっ、ハイわかりました』

多少慌てた声の若者の返答を聞いた後に、咲和子は静かに受話器を壁の内線電話機

に戻した。何喰わぬ顔で営業部のフロアに戻った女課長はその後も退社時間までは

淡々と仕事をこなして、完全に部下の若者を無視したまま表向きは帰宅の途に付い

た。

 

 

「おまたせしました、課長」

それなりに気を使ったのか? 30分ほど遅れて加藤が姿を見せた。このバーは少

し前に咲和子がひとりで見つけたお気に入りの場所で、会社からも離れているから

他の営業の人間に見られる心配はまず無いだろう。

「でも、部屋に来てくれる事に成っているのだから、わざわざ外で待ち合わせする

 事は無いと思いますよ」

意外な言葉を口にした若者の顔を咲和子はまじまじと見つめる。

 

「まあ、座れよ加藤」

話が込み入る上に、例え赤の他人と言っても他の客に興味本意で聞き耳を立てられ

ると困るので、店のマスターに頼み一番奥のボックス席を確保していた彼女は、遅

れて来た部下を座らせると、とりあえず用意してあった彼用のグラスにビールを注

ぐ。

「それで、私がわざわざ今夜お前の部屋に行くって話は、どう言う事なのさ? 」

「だって、課長があの時におっしゃったんじゃありませんか」

驚いた顔で抗弁する部下を前にして咲和子は苦笑いを浮かべた。

「悪いけれど、酒が過ぎていたせいで、先週末の出来事はほとんど何にも憶えてい

 ないのよ」

彼女の言葉に狼狽する若者を目の前にして咲和子は自分のグラスにもビールを継ぎ

足す。

「で、なんで私はお前に部屋に行くって事になったの? 」

「それは課長がこれから先は、ずっと僕の性欲処理を担当するからと… 」

とんでも無い台詞を口にした若者を咲和子は睨み付けた。

 

「お前ねぇ、たった一度、しかも酔っぱらってヘベレケに成った末にベッドを共に

 しただけで、何を思い上がっているのさ? なんで私がず〜〜〜っとお前の性欲

 処理なんてしなきゃいけないの? 馬鹿じゃない? 」

無闇に見下しているわけでは無いが、新入社員当時から面倒を見て来た部下と言う

事もあり、多少は軽んじている若者から屈辱的な言葉を投げかけられて咲和子は腹

を立てた。

「でも、それって課長が言い出したことですよ? 」

「私が? まさか? 」

憤慨を鎮める為にビールを呷ってから咲和子が反論した。

「いえ、あの、お前はもう課長の肉バイブだから、他の女に色目を使わないように

 、毎週末に一晩かかりで性欲を吸い取ってやる。勝手に、その… チ◯ポを使っ

 たら承知しないぞ! って、課長がおっしゃったんですよ」

恐る恐る語った加藤の告白に、彼女は返す言葉が無い。

 

「そんな馬鹿な事を私が言うわけ無いだろう! 酔っぱらっていて、しっかりとは

 憶えていないけれど、あんまり下らない事をホザくと本気で怒るわよ」

「そんな! 本当です、証拠もあります、ほら、あのDVDが… 」

「DVDがどうしたのよ? 」

部下の口から漏れる不愉快な話に怒りを募らせはするが、その一方で脳味噌の奥深

い所では、なにか小さな警報が鳴り始めたのを咲和子は感じていた。

(ヤバイ、いったいアタシはこの小僧を相手にして何をしでかしたんだろう?)

言い知れぬ不安に苛まれて渋面を見せる美女の耳に、恐縮した部下のとんでもない

台詞が飛び込んで来た。

 

 

 


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