「ねえ、一緒にフケない? 」 とびっきりの美女の誘いに、良治は脳みそで考える前に脊髄反射で頷いていた。大 学院の卒業祝いのコンパの2次会でやって来たのは道玄坂の裏路地にあるクラブだ が、そこで10分程前に知り合ったのがマミなのだ。
「麻に美しいで麻美、マミよ… 」 かなり出来上がっている様に見えたスレンダーな美女は、良治に妖然と微笑みなが ら自己紹介をしている。年はそう… 少なくとも院を今年追い出された良治より若 い事はあるまい。黙っていると少々気難しそうに感じるの美女の印象は、黒で統一 されたファッションに起因するところも大きい。背の高さも、1メーター85の良 治と、ちょうどバランスが良い点を見ても、彼女が70以下と言う事は無いだろう 。雑然と人々が漂う薄暗くやかましいクラブのフロアにおいても、彼女はひときわ 目立った存在なのだ。
「学生時代の友人の結婚式の2次会なの… あなたは? 」 「僕の方は、大学院の卒業追い出しコンパだね、もっとも修士で打止めの連中なん だけれどさ… 」 あまり人ごみが好きでは無い良治は、ようやく見つけたカウンターの隅の空間に身 を置いて、騒がしい音楽に身を委ねて踊る連中を漫然と眺めていた。そこに、一直 線に人をかき分けてやってきたのが麻美なのだ。彼が咽を潤していたミラービール のボトルを挨拶も無く取り上げて、そのまま優雅に煽ってみせる美女の格好の良さ に、良治は一目惚れしてしている。
「ありがとう… 美味しかったわ」 黒目がちの瞳で見つめられた良治の心は、いきなり8ビートでドラムを叩き始める。 「いや、それよりも、もっと飲むかい? 」 「そうね、それじゃ… 」 改めて注文しようと、カウンターの向こうに陣取るバーテンに振り返り掛けた良治 を制して、麻美は再び彼の手に戻したビールを取り上げると、そのまま残りを飲み 干して見せた。
「どうして、こんな隅っこで腐っているの? 」 空のビール瓶をカウンターに戻してから、麻美は彼の瞳を覗き込む。 「この手のイベントには慣れていなくてね。まあ、あんまり騒がしいのは苦手なん だよ」 わざわざクラブに足を運んでおいて、それはあんまりな台詞だ。本当は慣れ親しん だ学生の気楽な立場を離れてる事、それに仕事の為に、しばらくは東京を離れる事 に感傷的に成っていた良治だったが、立ち入った事を初めて合った美女に語り興を 削ぐ事もあるまいと思い、当たり障りの無い返答をする。
それに、ひとごみが苦手な事は嘘では無い。卒業コンパの2次会でなければ、こう いったクラブで酔うよりも、どこか静かなバーでグラスを傾ける方が、彼にとって は好ましい酒の楽しみ方だ。周囲の同級生等にオジン臭いと笑われるが、それでも 良治は静かに盃を重ねる方が好きだった。そんな良治に、どうやら彼女は興味を持 った様に見えた。
同じ年や年下では醸し出す事の出来ない大人の魅力に溢れた麻美との会話は、こん な雑然とした中で行われたにしては十分に知的であり、どうやら彼は魅惑的な美女 の御目がねに叶った様である。同じように、もう一本頼んだミラーをシェアした後 で、彼女は良治の耳もとで遁走を唆している。幸いな事に、フロアに流れる曲は佳 境であり友人達は誰もが踊りに夢中だから、この場から2人の不心得ものが手に手 を取って逃げ出しても、咎める声は聞こえて来ない。
細い階段を前後に成り上がって出た深夜には少し間がある繁華街は、相変わらずそ ぞろ歩きの人波が途切れてはいない。大通りへ出てタクシーを拾い馴染みのバーに 行こうとした良治の思惑は、あっさりと彼女に否定された。
「風が気持ち良いから、少し歩きましょう」 ごく自然に彼の腕を取った美女は、そのまま路地裏を歩き始める。たしかに春を感 じさせる柔らかな夜風は酔い覚めには心地よく、誘われるままに良治は歓楽街の雑 踏を離れて夜の街を散策する。やはり麻美との会話は胸が踊るものがある、高い知 性と教養が滲む、時にはアカデミックな話題から、時事問題、それに、ゴシップ、 ワイ談、際どいエロいジョーク等、目紛しく展開する会話が面白くて、良治は気分 よく深夜の徘徊を楽しんでいた。
「あら、桜? 」 川と呼ぶのもおこがましい水路の脇に点々と植えられた桜が6〜7分ほどに花を咲 かせている光景に、それまで笑い合っていたエロチックなジョークを打ち切って、 麻美は目を輝かせて見とれている。夜の水路脇の桜の木の袂に佇む美女の姿は官能 的で、良治は今日の追い出しコンパを企画してくれた学友達に内心で感謝する。あ と1週間の後に、ちょうど桜の花の満開の時期に東京を離れるのが惜しくなる様な 出会いであり、心にしばらくは残るであろう雅びやかな光景だった。
「桜はキライ… 別れの季節だものね」 再び彼の元に駆け寄った美女の何気ない一言から、良治は色々な想像をたくましく 膨らませる。 (桜と別れか? 彼氏との諍いで3月に辛い別れがあったのかな? それとも、ま さか今が修羅場の真っ最中? ) しかし、彼の物思いは長くは続かない、否、続けられない。桜並木を横切った後に 、まるで猫の目の様にクルクルと変わる豊富な話題に押し流されて、彼は再び麻美 との会話を楽しんでいる。
(あれ? ここはマズイよな) 知らず知らずの内に宇田川町へ近づいた良治は、目の端に高級住宅街にはそぐわな いネオンの輝きを認めて多少慌てる。なんで、こんなに広々とした敷地を誇る住宅 街に面しているのか分からないが、ラブホテルの立ち並ぶ一角に思いのほか近づい ていた事を、彼は麻美との会話に熱中する余りにすっかりと失念していた。慌てて 進路を変えようとした良治だが、何故か麻美はそれを拒む。
「このままだと、ちょっとマズイ所へ出ちゃうよ」 「あら。良いじゃない? 」 注意を促す良治の言葉を、長い黒髪のスレンダーな美女は軽くいなす。思えば、こ こに至る道程も、彼女が主導権を握り選んで来ている。 (ひょっとすると、いけるのかな? でも、まあ… いいか? これが多分最後の 渋谷だからな) ビールの酔いなど、とっくに醒めている良治は、腕を組む美女に引かれるままに、 ネオンの輝くラブホテル街へと足を踏み入れた。
「ねえ、何処にする? 」 入るのが当然、と言った具合で話し掛けてくる美女だったから、据え膳喰わぬは何 とやら… 内心でにんまりする良治に向って、麻美は目にとまった一件のホテルを 指差す。 「ねえ、ここ、入った事あるかしら? 」 「いや、無いよ」 何か問題かな? と、思い見つめる若者に、麻美はにっこりと微笑みを返す。 「OK、私も無いから、ちょうど良いわね。さあ、行きましょう」 こうして出会ってから、まだ1時間も経たない2人は、欲情の館の門をくぐった。
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