美しい従姉妹 1

 


その1

 

 

がちゃがちゃと耳障りな金属音と共に施錠が解かれた様だから、正信は読みかけの

雑誌から目を上げて玄関の方を見た。学生専門と言っても良い大学に近い安普請の

マンションだが、ワンルームでは無く狭いながらも2Kの間取りなので、通信販売

で揃えたリビングの安物のソファに腰掛けたままでは玄関の様子は見る事が出来な

い。しかし、待つほどもなく短い廊下との間を仕切る室内扉が開かれて、若く美し

い女性が登場した。

「やっほ〜、おまたせ、ショウちゃん」

正信の正の字をもじってショウちゃんと呼ぶ彼女は、母方の従姉妹の沢山美紗子、

年は正信よりも3つ年上の24才、ちょっと見なら女子大生と言われても誰もが納

得する外見だが、これでも結婚2年目のれっきとした主婦なのだ。

「あのねえ、ミサ姉、なんども言うけれど、ウチに遊びに来る時には、外でベルを

 鳴らしてよ。そうしたら、ちゃんと御出迎えに行くからさ」

「ぷぷぷ〜、こんな小さなマンションの部屋なのに、わざわざ大袈裟に出迎えたい

 の? それじゃ、いったい何の為の合鍵なのよ? 」

ピンクのリボンを結び付けた、とこにでもある鍵を指先でつまんでヒラヒラさせて

美紗子が微笑んだ。

「何の為って、だいたい合鍵をミサ姉に渡した憶えはないんですからね」

「ええ、そうね。気の利かない朴念仁の従兄弟がいつまでたっても合鍵をくれない

から、しょうがなくて美紗子様が苦労して君のキーホルダーから鍵を借りて、わざ

わざ近所のホームセンターで私専用の合鍵を作ってあげたのよ。この無駄な労力を

費やしたことに少しは感謝しなさいな」

合鍵を取り上げようと手を延ばした正信を嘲笑う様に、直前で鍵を引っ込めてしま

った美紗子は、部屋の持ち主の不機嫌さを他所に軽やかに身を翻すと勝手知ったる

台所へ向かった。手慣れた様子で単身者向けの小さな冷蔵庫のドアを開けると、彼

女はよく冷えた缶ビールを取り出す。

「ぷは〜〜〜、やっぱりビールはエビチュよねぇ。ショウちゃんもいかが? 」

「遠慮しておきます、と言うか? 飲む前にちょうだいの一言くらいあっても、良

 いんじゃないかと思いますよ」

身勝手な美女の行為に苦言を漏らしてはいるが、正信の言葉に悪意や棘は含まれて

はいない。年齢こそ3才しか違わぬけれども、高校時代にはサッカーに青春を捧げ

た正信の成績は、ほぼ壊滅状態だった事もあり、愚息の現役での入試突破が困難だ

と見切った彼の両親は、日本でもっとも評価の高い国立大学へ進学を果たしていた

親戚の美紗子に、若者の家庭教師を依頼していたのだ。

 

最初は従姉妹の綺麗なお姉さんが何か役に立つのかと見くびっていた正信だが、彼

女の授業は超スパルタであり、三年の夏で部活動を引退した後には、学校での授業

が終わると家に待ち構えた美紗子に毎日毎晩、深夜まで徹底的にシゴかれていた。

ちょっとでも眠気に誘われてウトウトすると、美紗子の手にしたアクリル製の30

センチの物差が彼の眉間を痛撃する。三年生の春まで生活のすべてはサッカー三昧

であり、脳味噌まで筋肉で出来ていると級友から噂されたスポーツ馬鹿に対して、

僅か数カ月で大学進学が可能なレベルまで学力を底上げしようとするのだから、美

紗子のスパルタ教育はけして過ちでは無かっただろう。

 

だから受験終了後に見事に希望の大学へ合格を果たした時に、報告に出向いた高校

の職員室では担任の教諭ばかりか、その時に在席していた全ての先生が屹立して唖

然としながら拍手してくれたものだ。少なくとも、今、おそらく辛いであろう浪人

を回避して大学生活をエンジョイ出来るのは、厳しくも優秀な家庭教師だった美紗

子のおかげだから、正信は今日でも彼女に頭が上がらない。したがって傍若無人に

振舞う美しい従姉妹に対する彼の苦情は、いつものように遠慮気味だった。

「こまかい事は気にしない、もっと心の広く大きな男に成りなさい」

よく冷えた缶ビールを片手に、美紗子はリビングに戻ると正信の隣に腰掛けた。

「ね〜ね〜、ショウちゃん、お腹すいた」

「おなかすいたって… ミサ姉、主婦だろ? しかも専業主婦じゃんか、旦那さん

 の、和人先輩の朝飯はどうしたのさ? 」

究極的自己中心主義を貫く美しい従姉妹だから、正信は彼女の夫であり、学校の先

輩にあたる沢山和人の事を案じた。

 

「旦那様は、可愛くて美人で気立ての良い恋女房を放り出して一昨日から出張中な

 の、今頃はグリズリーと一緒にカナダで鮭でも捕っているんじゃないかしら? 」

商社に務める先輩の和人が朝食抜きで働かされているのでは無い事を知り、正信は

心の中で安堵の溜息を漏らした。

「旦那がカナダでお仕事しているから、私はゆっくりと朝寝を楽しんで、もうお腹

 はペコペコよ。ね〜え〜、正信のオムレツが食べたい。ふっくら玉子でアツアツ

のオムレツ〜、早く作ってよ、ショウちゃん」

「はいはい、わかりました。お姉様」

缶ビール片手に躯を密着させてくる美しい年上の従姉妹をわざと邪険に押しやった

若者は、不機嫌な顔を保つ努力をしながら台所に向かった。

「いつもみたいに、玉子はふわふわにしてちょうだい、ショウちゃんのチーズオム

 レツは絶品よね」

「はいはい、分かっていますよ、ミサ姉」

鉄製のフライパンを熱してバターを溶かしながら、正信の意識は彼女からスパルタ

教育を受けていた頃に飛んでいた。

 

 

 

「美紗子さん、ちょっとだけ、ねえ、ちょっとだけ休ませてよ。もう4時間もぶっ

 通しで英語漬けなんだ。そのうちに日本語を忘れて英語で寝言をいいそうだ」

目の下にうっすらと隈を作った若者は、もう集中力が限界を突破したと訴える。

「軟弱ね、私の受験の時なんて、5〜6時間の勉強はあたりまえだったわ」

時計の針は深夜の12時を少し回ったところだが、家庭教師を引き受けた従兄弟の

家は、彼女の自宅から徒歩5分と言う立地条件もあり、美紗子の授業は連日当たり

前のように午前2〜3時まで続けられていた。

 

「まあ、そんなに言うなら5分だけ休憩、ねえ、ショウちゃん。私、コーヒーが

 飲みたい」

「了解、ちょっと待ってて」

ようやく5分の安息を手に入れた若者は、彼女の気が変わらぬうちにと焦りつつ

部屋を飛び出して階段を静かに駆け降りた。両親が寝静まった寝室の脇を通り台

所に到った正信は、電気ポットからカップに熱湯を注ぎ込みインスタントコーヒ

ーを用意する。

 

 

 

 


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