「おまたせ〜、珈琲、一丁」 最初に湯気の上がったカップを従姉妹に手渡してから、正信は自分の分を机の上に置 いて椅子に腰掛ける。 「それにしても、毎日、ほんとうに夜遅くまで勉強を教えてくれるよね、美紗子さん は… 」 自分がけして出来の良い生徒で無いと自覚があるから、彼にとっては額に脂汗が滲む 難問を稚技のごとく扱い瞬時に解答を導き出すばかりか、阿呆な教え子に分かるよう に噛み砕いて説明してくれる美紗子は神様のようにも思えていた。最初こそ、いくら 両親が在宅していると言っても深夜に若い男と女が密室で過ごす事に気後れと不謹慎 な邪心を抱いた正信だが、学校の教師の数倍も厳しい指導に加えて、少しでも気を抜 くと冷徹な視線で射抜かれるばかりか罵詈雑言で切り捨てられてしまい、今では美紗 子に対する邪な心は綺麗さっぱり吹き飛んでいた。
「ええ、なにしろ卒業旅行がかかっているもの」 気難しい彼女の好みを弁えた正信が差し出すミルクだっぷりのコーヒーを口に含んで から美紗子は微笑んだ。 「そ… 卒業旅行ですか? 」 なんのことだか合点の行かぬ若者は首を傾げて聞き返す。 「ええ、そうよ。もしもこのままショウちゃんを指導して、首尾よく希望の大学に入 学できたら、叔父さまに欧州への卒業旅行をプレゼントしてもらう約束なの」 年上の美しい従姉妹の言葉に正信は驚愕した。 「ぷっ… ぷれぜんと? 欧州って、ヨーロッパだよね? 」 「そうよ、同じゼミの女の子3人で、思い出つくりの卒業旅行なの、ああ、今から楽 しみだわ。そのお楽しみを実現させる為にも… 」 欧州旅行を夢見て陶然となっていた美紗子は、不意に面持ちを引き締めて鋭い眼差し で若者を睨んだ。
「ショウちゃんには、石にかじり付いて、いや岩だって噛み砕いてでも入試を突破し てもらうわよ。私の幸せな卒業旅行の為に、いよいよラストスパートだわ」 凄まじく熱心だった従姉妹のスパルタ教育の動機を知らされて、正信は大いに驚いた。 「なんか、釈然としない… 」 「えっ? なにか言った? 」 目を伏せて小声で呟いた年下の従兄弟に向かって、美紗子は厳しい視線を飛ばす。 「俺、ちょっと考えてみたんだけれど、この半年の頑張りで高望みさえしなければ、 ソコソコの大学には受かると思うんだ」 これは正信の自惚れでは無く、優秀な家庭教師である美紗子の奮闘もあり、いまの 若者の学力は驚く程に充実していて、現時点の実力を見れば、ここまで無理をしな くても進学可能な大学は幾つもあった。
「駄目!ダメよ、そんな弱気でどうするの? 目指せW大学! やっつけろK義塾 ! 君ならば行ける! 絶対に大丈夫! 」 もともと半年前に筋肉脳味噌のサッカー馬鹿の家庭教師を引き受ける際に、絶対に W大学への現役合格を請け負ったのは美紗子だった。美しい姪の言葉に感動した正 信の両親は、愚息が首尾よくW大学に合格した暁には豪華なヨーロッパ旅行のボー ナスを喜んでプレゼントすると確約していた。高額な家庭教師の報酬に加えて、ヨ ーロッパへの卒業旅行のゲットも射程内に納めた美紗子にとって、ここで正信が意 欲を失うことは致命傷になりかねない。
(まずい! 余計な事を口走ったわ。なんとかしなくちゃ… そうだ! ) 美紗子の存念を知り意気消沈した従兄弟に対して、彼女は明敏な頭脳をフル回転さ せて瞬時に体勢を建て直す。 「そうよね、私ばかり良い目を見たら、そりゃあショウちゃんも気分悪いわよね」 「いや、実際、美紗子さんのおかげで、大学への進学も夢じゃ無くなったけれども 、正直、ちょっとシンドクなって来たんだよ」 本音を言えば、ソコソコの大学でも大いに結構! こんな勉強漬けの生活からの脱 却を求めて正信は言葉をつなぐ。
「そりゃあ、感謝しているよ美紗子さん。でも、俺、もう… 」 「ねえ、ショウちゃんて、童貞? 」 いきなり話題が著しく跳躍したことで、正信は付いて行けずに驚き目を見張る。 「えっ? あの? 」 「だから、ショウちゃんは童貞なの? 女の子とセックスした事あるの? それと も無いの?」 聞き間違えどころか赤裸々な問い掛けを重ねられて、若者は絶句した。 「あの、えっと、経験したことありません」 切れ長な目でじっと見つめられた正信は、つい正直に自分が童貞である事を告白 する。 (いったい、何のつもりだ美紗子さん? ) 美しい従姉妹の質問の意味を計りかねて、若者は彼女の次の言葉を待ち身構える。
「頑張ったのはショウちゃんも一緒なのに、私だけ美味しい御褒美にありつくのは 、そりゃあ気分が悪いわよね、そこで… 」 驚いたことに美紗子は初めて若者の手を取り身を寄せて来た。綺麗な従姉妹と、こ れまでになく接近した事で正信は改めて彼女の美しさに見とれて息を呑んだ。 「もしもこのまま頑張ってショウちゃんがW大学に合格したら、君の童貞の卒業に 付き合ってあげるわ。これは、その手付けよ」 躯を密着させた美紗子の美貌がアップに成り唇が自分の唇と触れても、正信は驚愕 の余り反応が出来ない。
「ひょっとして、ファーストキスだったかしら? 」 顔を離した美紗子が悪戯っ子の様に微笑み問いかけて来たので、正信はまたまた素 直に頷いてしまった。サッカー命の高校生活を過ごして来た若者は、好奇心はある もののロクに同級生の女の子達と付き合うチャンスも無く今日に到っている。 「約束するわ、もしもストレートで合格したら、君の童貞を卒業させてあげる、だ から、ねえ、もうひと頑張りしましょうね」 妖然と微笑む美しい年上の従姉妹の言葉に何度も力強く頷いた正信は、この夜から 、まるで国立競技場のピッチに立ち、PK戦に臨むキッカーの様な集中力をもって 、決意も新たに勉強に取り組んだ。
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