「ただいま〜、って、ああ、そうか、今日は美紗子は同窓会だったな」 大学の同窓生の有志が企画したのは、日光鬼怒川の温泉旅館での同窓会らしく、1 週間ほど前の夕食の時に美紗子はすまなそうに彼に話を切り出していた。 「いいよ、行っておいでよ、たった1泊だろう? 僕なんか、1ヶ月も留守にする こともあったんだからね」 本当は一晩でも離れるのは嫌だが、自分の不在の間は家を守り寂しさに耐えてくれ ているのであろう妻のささやかな願いを、己の我侭で邪魔するのもまずいと思った 和人は、大人の余裕で妻の同窓会旅行への参加を承諾していた。それならば、それ で、妻の不在をよいことに夜の街にでも繰り出せばよいものだが、残念ながら下戸 な和人には、まばゆい電飾が煌めく繁華街に何の魅力も感じてはいない。アルコー ルをまったく受け付けぬ体質ゆえに、宗教上の戒律により飲酒を禁じている中東諸 国への出張や長期滞在が多い和人は、期間限定ながらの本社勤務で新たに同僚にな った者たちの誘いを断り、今日も今日とて真直ぐに帰宅していた。 「あれ? おかしいな? 」 ダイニングに足を踏み入れた和人は、テーブルの上に何も夕食の用意がなされてい ないことに首を傾げる。今朝、彼の出がけに妻は、今夜の夕食は準備しておくから 、電子レンジで温めて食べて欲しいと声を掛けられていた。酒も飲まぬ和人は、ひ とりでファミリーレストランで夕餉を楽しむ気にも成れないので、この美紗子の言 葉はありがたかった。しかし、帰宅して見ると温泉旅行に出掛けた妻の姿は当然な いが、用意されているハズの夕食も影も形も見当たらない。
(どうしたのかな? さては、旅行の準備に手間取って、夕食を作る時間がなくな ったのかも知れないな? ) いつもなら、寝室に行きクロゼットに背広を吊るし、普段着に着替えるところだが 、家のことは妻に任せきりの和人は、出前可能な近所の飲食店の電話番号さえ知ら ない。それに仮に番号を知っていたにしても、一人前の注文で宅配を頼めるほど、 彼は厚顔では無かった。 「着替えるのも面倒だな、このままもう一度出掛けて、駅前のラーメン屋にでも行 くか。それにしても美紗子の奴、間に合わないなら電話するか、メールをくれた らいいのに」 ひとりポツンと残されたダイニングで和人は愚痴を零した。その場に立ちすくんで いてもしょうがないので彼は落胆しながら身を翻す、その時、来客を告げるチャイ ムが部屋に響いた。 「はい、どちらさまですか? 」 夜間の時間指定の宅配便か、新聞の勧誘員だろうと当たりを付けた和人は、なんの 警戒心もなく扉を開き驚きで目を丸くする。
「おかえりなさい、沢山さん」 美紗子から良からぬ企みを持ちかけられた隣家の美人妻は、胸中で舌舐めずりしな がら和人に微笑んでいる。 「あっ、滝川さん、こんばんわ。えっと、妻は今夜は… 」 「同窓会の旅行で日光なんでしょ? 美紗子さんに聞きました」 妻の不在を知りながら訪ねて来た真弓子を目の前にして、和人は困惑するばかりだ。 「えっと、それでは、どんな御用件でしょうか? 」 「実は、美紗子さんに頼まれましたから、夕食に御招待いたします」 隣家の美人妻の唐突な申し出に、和人は大いに驚いた。 「は? 夕食… ですか? 」 「はい、実は今日、美紗子さんが旅行に出かける直前に、私、回覧板をお持ちした のです。そうしたら、美紗子さん、これから旦那様の為の夕食を用意しなきゃい けないって、大慌てでしたの」 思った通り、万事に付けて大雑把な妻は、おそらく旅行の為に入念に粧し込み、時 間の配分を過ったのだろう。内心で小さく溜息を漏らした和人に向かって、真弓子 は微笑み掛けた。 「そういう事ならば、これは丁度良いチャンスだと思ったので、私、今夜、沢山さ んの旦那さんを、夕食にお招きしたいって奥様にお願いしたのです」 「えっ? 御招待ですか? 」 隣家の美しい主婦の言葉に和人は思わず息を呑む。 「こちらに引っ越されて来て以来、奥様の美紗子さんとは懇意にさせていただいて いるのに、海外出張の多い旦那様とは、引っ越しの際に二言三言、御挨拶を交わ しただけですわよね」 たしかに真弓子の言葉に誤りは無いから、和人は黙って頷いた。
「だから、このチャンスに、もっと旦那様とよく知り合いたいと思って、今夜、夜 御飯にお招きすることを美紗子さんに提案したの。美紗子さんは出発までの時間 に追われていたらしくて、諸手を上げて大歓迎だって言ってくれました」 「すみません。図々しい妻で… でも、いきなり押し掛けたら、滝川さんの旦那さ んに申し訳がありませんよ。どうぞ、御心配なく、食事は自分で何とかします」 まさか、ハイそうですかと言って隣家にお邪魔するわけにも行かないので、和人は 魅力的な招待を一応は断った。 「あら、それは困ったわ。実は今日はウチの主人も夜釣りに出掛けてしまって、私 はひとりなんです。和人さんをご招待するつもりで、料理は二人分、準備してし まったの。ねえ、お願い、どうか御遠慮なさらずに、助けると思って御飯を食べ に来てください」 ここで辞退されたならば計画が台無しだから、真弓子は思いっきり魅惑的な困惑顔 を見せて、さらに怯む和人の手を取った。 (うひゃ〜〜、でも、これってラッキーかな? 夕食だけならば、別に浮気と言う わけでもないし、しかも厄介な隣の旦那は留守だし、だいたい、夕食への招待は 美紗子も承諾しているんだし、もう準備もしちゃっていると言うし、ここで断っ たら、かえって迷惑って言うもんだよなぁ… ) 余り馴染みは無いが、妻の美紗子に勝るとも劣らぬ美貌が眩い隣家の人妻から、手 を取って懇願された和人は、コンマ5秒ほど考えた後に、ぎこちない笑みを浮かべ て頷いた。
「それほど、おっしゃって下さるなら、是非、お呼ばれさせて下さい」 「まあ嬉しい、ささ、どうぞ、どうぞ」 気が変わると困るから。真弓子は隣の旦那の手を取ったまま自室に向かって歩き 出す。 (やったね! 第一関門突破、さあ、がんばるわよ、美紗子さん) 真弓子は和人から見えぬところで、してやったりの顔をして悪魔の笑みを浮かべ ていた。
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