「君にはどんなに感謝しても、しきれないよ。君と一夜を過ごしてから景子は変わ った」 まだ目の前の男の意図がまったく読めない正信は、曖昧な笑みを浮かべて困ってい る。 「変わったと言っても、別に悪くなったわけじゃない。いや、それどころか、彼女 は実に良く成ってくれた」 仕立ての良い背広姿の泰男は、微笑みながら脚を組む。 「知っての通り彼女はプロへの転向を目前にしてテニスの選手生命を怪我で絶たれ しまった。失意のどん底に落ちたのに付け込んで、私は彼女に求婚して、ようや く華飾の宴に持ち込んだのさ」 「あの、景子さんとはお見合いの末に結婚だと聞きましたが? 」 緒方の言葉と異なるので、思わず立ち入ったことを正信は尋ねてしまう。 「そうなんだ。彼女がアキレス腱の怪我で、もうプロへの転向が絶望的に成った時 に、私は、あらゆるツテを総動員して見合いに漕ぎ着けたのさ。魂の抜け殻にな っていた景子を口説き落として妻に迎えた時には、どれだけ嬉しかったか君には 分かるまい」 遠い目をして自分語りを続ける泰男の意図が読めぬ正信は、だまって頷くより他に 手立てが無い。
「どさくさ紛れで結婚したが、妻は最近まで私に心を開いてくれなかった。天才と 讃えられながら怪我で選手を諦めなければならぬ憤りが、彼女を頑にしてしまっ ていたのだろう。どんなに高額なドレスやアクセサリーをプレゼントしても、景 子は上の空でおざなりな礼の言葉を口にするだけだし、私とのセックスも、淡白 と言うよりも冷淡と言う言葉が適切な味気ない虚しい行為に過ぎなかった。だが… 」 それまでは沈痛な面持ちで過去を振り返っていた泰男の顔が急に綻び、目に光りが 宿ったので、正信はまたもや面喰らう。 「君と一夜を過ごしてから、妻は… 景子は大いに変わったのだ。日常の態度こそ 、まだ素っ気無さは残るが、閨の床での彼女は別人だよ。もう、あの白けたマグ ロ女の面影は、どこにも残っていない。積極的にキスをねだり、あれほど嫌悪し ていたフェラチオすら厭わず、セックスの快楽を貪欲に受け入れる姿を見せる景 子を、僕はこれまで見た事は無い。みんな君のおかげだ」 満面に笑みを浮かべた泰男は、尊敬を込めた視線を自分よりも年下の若者に向けた。 「セックスだけでは無く、なんと言うか? 日頃、これまで唯我独尊でしか無かっ た景子の態度も大きく変わり、私を夫と認めて立ててくれるようにも成っている んだよ。今までは何を言っても小馬鹿にするか、不機嫌に冷笑するばかりだった のに、最近ではよく朗らかに笑うし、夫婦の会話も随分と増えている。それに、 閨でも、ぐふふふふふふ… 」 最近の妻の変化を喜び、ひとり物思いに耽る泰男の無気味な笑いを耳にして、正信 は引き攣るばかりだ。しばらく夢想に浸り陶然としていた景子の夫は、ふと我にか えると恥ずかしそうに微笑んだ。
「いや、失敬、今が余りにも幸せなまので、思わず感慨に耽ってしまった」 「いえ、その… もしも俺とのことで、景子さんの心の蟠りが少しでも解消された なら、それは結構な事ですよ」 こんなにも素直に感謝の念を捧げられると、まんざら悪い気もしないから、正信は 少し照れながら頭を掻いた。 「そんな大恩ある君に、こんなことを頼むのも気が引けるのだが、その… 是非、 君にきいて欲しいお願いがあるんだ」 不意に真顔に戻った泰男の鬼気迫る眼差しに、正信は驚き少し身を引く。 「あの、お願いって、どんな事でしょうか? 」 「実は… 」 泰男は目を血走らせながら、切々と願いを口にする。
「はい、わかりました」 「たっ! 頼めるのかい? ほんとうに頼んでもいいのかい? 」 泰男の大袈裟な感謝が可笑しくて、正信は微笑みながら頷いた。 「それくらいなら、お易い御用です」 「ありがとう、本当にありがとう! 」 立ち上がった泰男が駆け寄り、若者の手を握り感謝を込めて上下させるから、正信 は些か閉口した。そんな時、洗面脱衣所のドアが開き、胸元で大きめのバスタオル の端を結んだ景子が肌を桜色に染めて現れた。 「男二人で騒々しいわね、なにをしているのよ? まさか、どちらかがゲイで、も うひとりを口説いているなんて言わないでよ」 確かに初対面の頃にくらべれば、まだ口調は皮肉っぽさも残ってはいるが、こんな 風に軽口を叩く行為そのものが、過去も景子からは想像出来ない泰男だった。 (本当に、このサークルに入ってよかった… おまけに、今夜、長年のゆめまで叶 うかも知れないなんて、ああ、神様ありがとう) 至福の時を迎える予想に胸を高鳴らせた泰男が陶然とする中で、景子は呆れた顔で 夫を見つめる。 「それにしても、妻が他の男と犯っている姿を見たがるなんて… どうかしている わよ、泰男さん」 景子の辛辣な台詞も、今の夫には心地よいのであろう。泰男はまったく意に介す様 子を見せない。
「御免ね、マサノブ、この人、ちょっと変わっているの」 心底、済まなそうに眉を顰める美人妻に向かって、正信は頷き同意を示す。 (いやいや、まだ分かっていないみたいですね、景子さん。あなたの旦那さんは、 ちょっとどころか、すご〜〜〜〜〜〜く、変わった趣味の持ち主ですよ) 内心で苦笑いを浮かべながら、泰男の心からの切なる願いを叶える為に、正信は彼 女に向かって話し掛ける。 「ところで景子さん、今回もテニスの支度をして来たのですか? 」 「ええ、もちろん。でも、今度の集まりでは、マサノブはシークレット会員なんで しょ?参加しているのが秘密なんだから、まさか堂々とテニスを楽しむわけには 行かないわ」 事前に緒方から説明を受けていて、事情を理解していた景子は怪訝な顔で若者の問 いかけに応じた。 「ええ、さすがに、まっ昼間、テニスコートに行くのは駄目なんですが、ここで景 子さんのテニスウェア姿を見るのは問題ないでしょ? 」 最初は当惑した顔を見せた景子だが、察しの良い彼女は、かなり正確に正信の思惑 を読み取り妖艶な笑みを浮かべた。 「まさか、あなた、テニスウェア姿の私を犯すつもりなの? 」 「正解です。だからアンダースコートは履かないで結構ですよ」 自分の推理が当ったのを喜んで良いのか? それとも罵ればいいのか? 少しの間 、景子はあきれ顔で悩んでいた。
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