その2

 

 

 

 

「おいしい! これ、ほんとうにみんな、お姉ちゃん作ったの? 」

コンソメ風味のロールキャベツを頬張った優香は、お世辞抜きで賛嘆の言葉を口にした。

「ほんとうにって… どう言う意味よ? まったく、失礼な子ね」

台詞は些か棘があるが、妹が裏腹の無い性格である事を承知している礼子は、最近よう

やく様になって来た手料理を誉められて悪い気はしていない。彼女が大学生の頃は毎日

、通いの家政婦が食事の世話を行っていたが、就職後には花嫁修行を兼ねて週末に限り

礼子が台所に立ち、ベテランの家政婦と共に食事の準備を行う様になっていた。

美術館に勤める新米学芸員でありながら実家の威光により週末に休みを貰っている礼子

は、最近では家政婦の手を煩わせる事も無く、土曜日と日曜日の夕食の準備をひとりで

行うまでになっている。たしかに妹が驚くほどに料理の腕前を上げてもいるが、種を明

かせば先代からの出入りの業者達がプロの目で吟味した最上級の食材を毎日納品して来

るので素材の鮮度は最高だから、よほど味付けに大きな失敗の無い限りは水準以上の料

理が食卓に並ぶ事に成る。

そんな裏事情など知る由も無い優香は、姉の手腕に大いに驚き尊敬の眼差しを向けなが

ら、旺盛な食欲を見せていた。

「それで、大学の方はどうなの? 少しはひとり暮らしにも慣れたのかしら? 」

「うん、学校は楽しいよ。それにひとり暮らしと言っても、大学と提携したマンション

 住まいだから住人はみんな学生か学校の関係者だもの、もしも何か困っても相談相手

 には事欠かないじゃん」

礼子の心尽くしの夕餉を堪能した優香は、姉と差し向いの席に陣取り食後のコーヒーの

芳醇な香りを楽しんでいた。

 

「まあ優香ちゃんの事だから、大学の授業に関して悩む事はないでしょうね。それに、

 あなたはしっかり者だから私生活についてとやかく言うつもりも無いけれど… もし

 も、なにか困った事があったら、変にひとりで頑張らないですぐに家に電話してね」

「いやだなぁ、お姉ちゃん。せっかく妹がひとり立ちを目指しているのに、妙に甘やか

 さないでよ。一人暮らしは独立の為の最初の一歩なんだから」

姉の好意は痛いくらいに分かるのだが、優香にはどうしても間宮の家を離れなければ成

らない理由があった。キリマンジャロの香りを楽しむ優香の耳に、玄関での物音が聞こ

えて来た。

(ああ、帰ってきちゃった、いい優香、絶対に涙なんか浮かべちゃ駄目! 心しなさい

 、これが正念場よ)

廊下を進む静かな足音に次いで襖が開き、背広姿の初老の男が顔を覗かせた。

「やあ、お帰り優香」

「ただいま、お父さん」

覚悟は決めていたものの、いざ父親の哲男の顔を見ると優香の心臓は早鐘を打鳴らす。

(ああ、やっぱり素敵だ… )

感極まって次の言葉の出ない娘の顔を満足げに眺めた哲男は、今度は食卓の向うの長女

に目をやる。

「お腹が減っているのだが、すぐに夕食をお願い出来るかい、礼子? 」

「はい、優香ちゃんは食いしん坊だから、さっさと先に済ませてしまいましたが、ちゃ

 んとお父様の分は取り分けてありますから、すぐに支度を整えますね」

姉のからかう様な台詞を聞いて、心の動揺を悟られたく無い優香は即座に反応する。

 

「なによ、お姉ちゃん! こんなに早くお父さんが帰ってくると分かっていたら、私だ

 って御飯を待ったのに」

「だって、優香ちゃんたら、お腹が空いて死にそうだって言ったじゃない。あのまま放

 置したらテーブルまで食べちゃいそうだったから、先に御飯にして上げたのに… 」

口では妹に負けた事の無い礼子は、面白そうに優香をからかった。

「ははははは… そういえば、小さい頃から優香は美味しいものに目が無かったな。小

 学生の頃には、好物のケーキを食べ過ぎて、お腹を壊したことがあったものな」

「いやだ、お父さん、また、その話? いいかげんに忘れてよ」

独立後数カ月のブランクがあったにも関わらず、これまで何度も繰り返されて来た家庭

的な会話がスムーズに進められた事で、何とか優香は心中の動揺を表に出す事無く父親

との再会を果たしていた。

(本当に、素敵)

着替えて来ると言い残して、一旦部屋を離れた父親の後ろ姿をいつまでも頬を上気させ

て見送る優香の事を、礼子は目を少し細めて曰くありげに見つめていた。

 

もともと、優香が地方財閥と言っても過言ではない実家を離れて、わざわざ間宮家の権

勢や威光の通じぬ東京の大学を選び慣れぬ一人暮らしを選んだのは、ひとえに自分の重

篤なファザーコンプレックスを自覚した上での断腸の思いでの決断だった。彼女の父親

の間宮哲男は今年で55才に成る。この地方有数の大地主であり、県下でも最高の水準

を誇る間宮美術館の管長職を務める哲男は同時に間宮家一門の総帥として崇められても

いた。

莫大な資力を持つ間宮家の総領の哲男は新類縁者に対して実に面倒見が良く、ほとんど

全ての親戚は何らかの形で彼の世話になって来ていた。しかも、哲男はそれで恩着せが

ましく振舞う様な不粋は真似は一切見せず、どんな厄介事でも親身に成って相談に乗り

経済的な援助も厭う事は無かった。また親類ばかりでは無く、社会的な奉仕にも積極的

な哲男は関係者から乞われて幾つかの非営利団体のトップの座にも付き献身的な活動を

行い、県下でも知らぬ者は無い篤志家と評価されていた。

昔にくらべれば年齢的に考えても衰えて良いハズなのに、今日、しばらく実家を離れて

いた我侭娘が戻って来た事を喜ぶ哲男の顔は、年輪を正しく重ねて来た男だけが醸し出

す重厚で気品に満ち溢れた笑顔であった。遺伝的なものなのか? 40才の声を聞く頃

には目立ち始めた白髪であるが現在の様に全ての髪が灰色に染まればロマンスグレィと

言う表現がピッタリの魅力溢れる初老の紳士であり、東京の銀座からわざわざ馴染みの

仕立て屋を呼び寄せて仕上げる最高級のオーダーメイドのスーツと相まって、娘の優香

がうっとりする様な男の色香が漂っていた。

10年以上も前に妻を病気で亡くしていたので、哲男に後妻を娶る事を勧める関係者は

山程いたが、彼は亡き妻への思いを貫き通して、愛おしい妻の面影がのこる二人の娘を

男手ひとつで育て上げて来た。と、言っても、そこは資力豊かな地方財閥の総帥である

ので、礼子も優香も何ひとつ不自由なく素直に優しく成長している。最近では関係者や

親族の興味は長女の礼子の嫁ぎ先候補へと移っているが、同時に哲男の後妻候補もまた

、まだまだ自薦他薦を含めてかなりの数が押し寄せて来る。

だが今のところは父も姉も、まだお互いに新たな配偶者を迎え入れる素振りは見せてい

ない。妹の立場とすれば、姉の礼子がどんな男を選び、父親に紹介するのか興味津々だ

が、それとなく探りを入れても何時も礼子にはぐらかされてばかりいた。正直に言えば

姉の結婚に関しては興味本意でしか無い優香にとって、憧れの男性の具現化である父、

哲男の後妻問題は比較に成らぬほど切実だった。生物学的に見て近親交配による弊害を

避ける為に、年頃の娘は父親を本能的に嫌悪する傾向がある。

 

間違えて血が濃く成る事を避ける為の本能だと言われているが、優香にはまったく理解

が出来なかった。ランドセルを降ろしてセーラー服に袖を通す年頃に成ると、親しかっ

た女の友達からは、自分の父親に対する悪口が頻繁に飛び出す様に成って行く。臭い、

汚い、だらしない、優柔不断、いてもいなくても同じ、いや、むしろいない方がラッキ

ー、うざい、一緒の部屋にはいたくない、最低、けち、馬鹿、卑屈、絶対に街で一緒の

所を友達に見られたく無い… 等、思春期故の自覚のない残酷さも手伝い、女の級友た

ちは日常的な会話の中で父親の存在意義すら否定する台詞を平然と並べ立てていた。

 

 

 

 

 


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