その7

 

 

 

「つきましたよ、先輩」

美樹子の暮らすアパートには以前に何度か足を運んだ事があり、道に迷うような事

は無いのだが、過去の訪問の際には必ず他の部員の誰かもいっしょだったので、こ

うして不測の事態と言っても二人きりで、しかも深夜近くに女性の一人暮らしのア

パートへ向かう行為は、智也をもやもやとした落ち付かぬ気分にさせている。

飲み屋から背負って来た美樹子の胸の柔らかなふくらみの感触は、厚手のセーター

越しでも十分に男心をくすぐるし、アルコールの臭う息と、甘い香水のかおりがま

じった体臭は、智也がどんなに朴念仁であろうとも心を揺さぶるものがある。股間

が疼くのを精神力でねじ伏せた若者は、どうにかこうにか彼女の暮らす古びたアパ

ートの前まで辿り着いた。

「さあ、先輩、大丈夫ですか? 」

1階の一番奥の部屋の前まで来て、智也は背負った美女に話し掛ける。

「はい、これ」

意外とはっきりとした口調で美樹子が背後から鍵を手渡して来るから、多少面くら

いながら智也はアパートの施錠を解き扉を開く。狭い玄関で彼女を背負ったまま、

器用に靴を脱いだ若者は、以前にお邪魔した時の記憶を頼りに蛍光灯のスイッチを

オンにする。灯りが点った室内を進み、ダイニングを通過してリビングへ入った智

也は目の前の2人掛けのソファに、ようやく背負ってきた美樹子を降ろした。

(あ〜あ、もうこんな時間か? これじゃ終電に間に合いそうも無いや。今日の忘

 年会は、やけに長引いたなぁ… )

いつもならば、どんなに座が盛り上がっていても11時前後にはお開きになる空手

部の宴会なのに、なぜか今日に限って、午前零時近くまで長引いたのか? それが

先輩の吉野の深謀遠慮の結果とはつゆ知らず、若者は駅前に戻り、ネットカフェで

始発まで時間を潰そうと考えた。

「それじゃ、先輩、俺はこれで… 」

立ち上がり振り返ろうとした智也のズボンの裾を、驚く程の素早さで美樹子が掴んだ。

「お水〜、ねえ、お水が飲みたいよ〜」

「はいはい、わかりました」

この期に及んで急ぐ理由も無いので、智也は台所に向かうと冷蔵庫からミネラルウ

ォーターのペットボトルを取り出す。

「飲み足りなきゃ、冷蔵庫に発泡酒が入っているぞ〜〜〜」

「もうお酒ならば十分です」

家主の親切を余計なお世話とばかりに蹴散らした智也は、ペットボトルからグラス

に注いだミネラルウォーターを手にしてリビングに戻る。

 

「はい、先輩、お水ですよ」

「おう、さんきゅ〜」

自分から水を寄越せとねだっておきながら、美樹子は受け取ったグラスに口を付け

る気配が無い。一方、ここにきてようやく女性と二人きりで部屋にいる事を意識し

た智也は、ソワソワと落ち着きを無くす。たとて欲情に流されて不埒な行為に及ん

だとしても、相手が美樹子であれば、返り打ちに合うのが関の山だ。

そんなことは重々承知していても、女性の一人暮らしの部屋には、自分のマンショ

ンとは異なり、甘酸っぱい香りが漂いっている。如何に格闘技が趣味の猛女であっ

ても、うら若き女性の部屋は、それなりに色っぽく、棚に飾られた可愛い小物類な

どを眺めていると智也の心は散り散りに乱れる。

(やばい、何を考えているんだ? 俺は! 相手は美樹子先輩なんだぞ! 色即是

 空、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経… とにかく、早く出て行かなきゃ)

見る見る内に落ち着きを失った智也だから、酔っぱらっているはずの美樹子の目に

妖しい光が宿ったことには気付かない。

「あの、先輩、それじゃ俺は、これで… 」

「もう終電は無いよ」

口に付けぬままグラスをテーブルに置いた美樹子が不機嫌そうに言った。

「ええ、だから、駅前のネットカファにでも… 」

このままここに留まれば、理性を保つ自信がない智也だから美樹子が、なぜ不機嫌

なのかまで思いが及ばない。すると、美樹子はいきなり身を乗り出して、鈍い後輩

の胸ぐらを掴む。

「お前、ほんとうに帰るつもりなのか? 首尾良く、深夜に一人暮らしの女の部屋

 に侵入したのに、なにもしないで帰るって言うのか? 」

「いえ、その、侵入って… 俺はよっぱらった先輩を、ただ送って来ただけで… 」

若者が苦し気にそこまで言い訳したところで、胸ぐらを捉まえていた美樹子は力任

せに彼を引き寄せる。いきなり彼女の顔がどアップになったのに続き、唇を重ねら

れた事から、智也は思考停止に陥った。

 

「まったく、もう… ここまでやらないと分からないのか? この鈍チン! 」

怒ったような、それでいて照れくさそうな美樹子の顔を見て、智也は大いに驚いた。

「これって、その… 」

「ああ、そうよ! 全部あたしが吉野に頼んで仕組んだの。忘年会を長引かせて終

 電に間に合わなくさせて、それでもって、アンタに送ってもらえる様にしたのよ

 。この鈍チンめ! それなのに、アンタったら、帰るなんて言いやがって! 」

瞳に涙を浮かべて誹る美樹子に、若者は強い衝撃を受けた。

「新入生のオリエンテーションの時から目を付けて、いつもアンタしか見ていなか

 ったのに… 」

膨れる美樹子の剣幕に、智也は口を挟むことが出来ない。

「それなのに、アンタと来たら、夏の合宿の時も、晶子とか恵美とか、頼子ばっか

 り見て、私の事なんて、ちっとも気にかけてくれないんだもん! 本当に頭にく

 るわ」

ここまで聞いて、彼女がとんでもなく誤解している事に気付いた智也は、ようやく

反論に取りかかる。

「ちょっと、待って下さい、それは違います、誤解です」

「なにが違うのよ? どう誤解しているって言うの? 」

半端な言い逃れは許さんぞとばかりに美樹子は目の前の若者を睨む。

「俺が美樹子さんを見ない様にしていたのは、自分の気持ちが美樹子さんに見透か

 されるのを恐れたからです。誰か他の人に意識を集中していないと、多分、俺は

いつでもあなたを目で追い掛けてしまうからですよ」

意外な智也の告白を聞いて、美樹子は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔に成る。

 

「俺は美樹子先輩が好きです。だから、先輩に認めてもらえる様に、空手の稽古に

 も取り組んで来ました。もっと修練を積んで、いつか美樹子先輩を負かしたら、

 その時にこそコクろうと思っていたんです」

真正面から直球勝負の告白を受けて、姑息な謀略を仕掛けた美樹子の方がたじろいだ。

 

 

 

 

 


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