その2

 

 

 

「はい、わかりました」

ちらっと視線だけ左右に走らせて、二人の会話を聞いていたものがいないのを確

かめた芳弘は、受け取った名刺を素早く自分の制服の胸ポケットに滑り込ませた。

「じゃ、また明日、そうそう、書類、ありがとうね」

まだ興奮と緊張のおさまらぬ少年を他所に、美しい女教師は再び文芸部関連の書

類を手にとり、学年主任の席の方に足取りも軽やかに歩み去る。その後ろ姿に小

さく一礼した後に芳弘は振り向くと気もそぞろに職員室を後にした。

それから自分がどうやって学校を出て自宅に戻ったのか、正直なところ芳弘には

確かな記憶がなかった。胸のポケットにおさめた名刺の存在感は大きく、そして

重く、なぜ、自分が智代に個人的に、しかも自宅に呼び出されたのか? どう考

えても分からない少年の頭の中では、身勝手で欲情に満ちた不埒な妄想が次々と

沸き上がる。家に辿り着いた後に、夕食の時に母や妹と何か会話したような気も

するが、すべて上の空の生返事で応じた芳弘は、食事を終えると早々に部屋に戻

ってベッドの上に寝転んだ。

「なんだろう? どうして先生は僕を呼んだのかな? ひょっとして、いや、そ

 んな馬鹿な、でも、ありかな? いや、ないない、まさかね、だけど、それな

 らば何故、まさか… 」

あらゆる妄想が頭の中で飛び交うが、不意に現実に戻った少年はベッドから跳ね

起きると、慌てて部屋の済みのクロゼットに駆け寄り、扉を開いてガサガサとハ

ンガーに掛かったシャツを物色する。

 

「日曜日だから、まさか制服で御自宅にお邪魔するわけには行かないよな、えっ

 と、あのブルーのボタンダウンは何処だ? あっ、こっちのシャツの方が新し

 いよな。ジーパンは504で良いとして、あとは靴か? 」

まかに間違えてもデートに誘われたわけでは無いと知りながら、それでも明日に

向けて期待と興奮を胸中で膨らませた少年は、クロゼットの扉に埋め込まれた鏡

の前で、ハンガーに吊るされたシャツを、取っ替えひっ替え、胸元に押し付けて

、どれが一番自分に似合っているかを考慮し続けた。

 

 

「それじゃ、行って来ます」

悩みに悩んだ挙げ句、最初に選んだブルーのボタンダウンのシャツと504のジ

ーンズを身に纏った少年は、とっておきのナイキのバスケットシューズの紐を締

め終えると勢い良く家を飛び出した。

「ママ、お兄ちゃんは、きっとデートだよ」

「えっ、まさか、あの子が、それは無いんじゃないの? 」

旋風のごとく玄関から消えた芳弘の気配を読み、今年中学に入学したばかりの妹

が、訳知り顔で母親に言い付ける。

「ううん、絶対デート、だって、昨日の夜、お兄ちゃんたら、もっている洋服を

 全部ベッドの上に持ち出して、あ〜でもない、こ〜でもないって悩んでいたも

 ん」

「へ〜〜、あの子がデートねぇ、世の中には物好きな女の子もいるものだわ」

母親のあんまりな台詞に妹が噴き出した。

「ぷぷぷ… ママったらひどい、でも、まあ、ママの言うことには賛成かな」

母と妹が身も蓋も無い会話を繰り広げているとはつゆ知らず、芳弘は昨晩ネット

で調べた道筋で憧れの女教師の自宅を目指した。最寄りの駅のロータリーにある

洋菓子屋で、手土産げのつもりのシュークリームを購入した少年だが、携帯を取

り出して現在時刻を確かめると思わず溜息を漏らした。

「まいったな、わかっていたとは言え、やっぱり早く着き過ぎだ」

ネットで確認した女教師の住所は、彼の家からは電車で1時間とは掛からぬ距離

だったが、遅刻だけは避けたい少年は想定の倍の2時間を見て自宅を後にしてい

る。だから、こうして最寄りの駅に辿り着いても、指定された2時までには1時

間以上も残されている有り様だった。しかたなく土産のシュークリームを買い求

めたあと、駅から徒歩で5分も掛からぬ女教師の住むマンションの前まで一度足

を運び、その場所を確かめた芳弘は、再び駅前に舞い戻り古びた喫茶店に腰を落

ち着けた。

 

(それにしても、いったい、どんな用事なのかな? )

夕べ一晩考え抜いても、やはり美貌の女教師が個人的に自分を自宅に招く理由が

分からないから、注文したアイスコーヒーを所在なさげにストローで掻き混ぜつ

つ、少年は思案にくれて小さく溜息をもらす。ここに到るまでは、智代が親し気

に自宅の場所どころか携帯電話の番号まで教えてくれた事に有頂天に成っていた

が、いよいよ指定された時間が近付くと、今度は呼び出される理由が分からぬ不

安の方が強く成ってゆく。

不純異性交友の憶えもなければ、無断欠席はもとより遅刻も無く、成績の面でも

クラスの上位5人の中に入っている芳弘は、こうして喫茶店に腰を落ち着けて考

えても今日の呼び出しの理由が思い浮かばなかった。

(文芸部関連のことならば、別にわざわざ休みの日に僕のことを呼び出す必要は

 無いし、担任の先生だけれども、受け持っているのは2年生の選択科目の美術

 だから、1年生の僕は直接は授業を受けていないし… 他に智代先生と何かか

 かわり合いがある事なんて、ぜんぜん思い浮かばないよなぁ、いったい、なん

 で日曜日に自宅まで来いなんて言われたのだろう? )

半分以上も氷りが解けて、かなり水っぽくなったアイスコーヒーを少しだけ口に

した少年は、喫茶店の雰囲気に合わせたレトロなアナログ式の壁掛け時計を見て

は、なんども小さく溜息を漏らした。彼の懊悩などに関わり無く時計の長針は進

み、やがて頃合の時間になったことから、まだ考えはまとまらなかったが芳弘は

支払いを済ませると店を後にする。

駅に付いた直後に一度は下見をしていたので道に迷うはずも無く、彼は美貌の女

教師が待っていてくれるであろうマンションを目指した。さっき来たときには建

物の前の道から見上げただけであったが、今回は不安な気持ちを抱えつつエント

ランスに足を踏み入れる。防犯の面ではどうかともおもうが、女教師が暮らして

いるマンションには、オートロックのような面倒な設備は無く、芳弘は何の苦労

もなしにエレベーターまで辿り着く。そして少年はいよいよ意を決して憧れの美

人教師の部屋の前まで辿り着いた。

 

「ふ〜〜〜〜。落ち着け、落ち着けよ、ヨシヒロ、平常心だ」

ここに至るまで何故呼び出されたのか、とうとう理由を何も思い付かなかったこ

とが気掛かりではあるが、そんな些細な疑問の為に、この夢のような招待を断る

のは論外だから、彼は携帯を取り出して最終的な時間調整を行ない、2時ちょう

どに智代先生の部屋のインターホンのボタンを人差し指で押し込んだ。軽やかな

チャイムのすぐ後で、鈴を転がすような美人教師の応じる声が聞こえてきた。

 

 

 

 

 


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