その3

 

 

 

 

「は〜い」

「あの、僕、新田です」

返事の変わりにガチャガチャと耳障りな解錠の音が廊下に響き、すぐに開いた扉

から智代が顔を覗かせた。

「いらっしゃい、待っていたのよ、さあ、どうぞ」

小洒落た装いの玄関には男の気配は見当たらないから、少年は改めて自分は日曜

日の昼過ぎに若くて美しい女性の自宅に招かれたことを強く意識した。

「お邪魔します、あの、これ… 」

駅前の洋菓子屋で買い求めたショートケーキの箱を持ち上げると、智代は少し驚

いた様子を見せた。

「まあ、御免ね、昨日ちゃんと手ブラで来てちょうだいって言っておけばよかっ

 たわね。なんだか変に気を使ってもらって、申し訳がないわ」

「いえ、そんなことありません」

玄関からまっすぐ伸びた短い廊下の突き当たりがリビングで、彼を招き入れた女

教師はソファに腰掛ける様に促した。

「いまお茶を入れるから、それまで楽にしていてちょうだいね」

「あっ、あの、どうぞ、お構いなく」

身を翻してダイニングに向かった智代は、2〜3歩いたところで立ち止まる。

「ねえ、新田くん、コヒーと紅茶、どっちが良いかしら? まあ、コーヒーはイ

 ンスタントだし、紅茶もティーパックなんだけれど」

顔だけ振り向いた女教師の問いかけが嬉しくて、芳弘は即答する。

「どっちも好きですから、どちらでもいいです」

「ならコーヒーにしましょう、ちょっと待っててね」

彼女がダイニングに引っ込むと、ソファに浅く腰掛けた芳弘は物珍しそうにきょ

ろきょろと左右を見回す。女の人のひとり暮らしの部屋に招かれたのは、短い人

生の中では初めてのことであり、きちんと整とんされた室内には、玄関と同様に

男の影は感じられない。

 

(本当にひとりで暮らしているんだな、先生は… )

自分は口煩い母親、仕事柄留守が多い父親、それに最近とくに生意気に成って来

た妹との4人家族であり、母親が専業主婦な事からたいていの場合は家に誰かの

気配があるのに比べて、センスよくまとめられてはいるが、整頓が行き届き過ぎ

ていて、かえって生活感が希薄な女の一人暮らしの部屋は、少年の目には新鮮に

映っていた。

「おまたせ」

湯気のゆらめくコーヒーカップを二つ、そして芳弘の手土産のシュークリームが

並んだお皿を乗せたトレーを持って智代がリビングに戻って来た。

「ありがとうございます」

目の前の硝子テーブルにコーヒーとシュークリームが振舞われたから、芳弘はペ

コリと頭を下げた。

「ねえ、このマンション、すぐに分かったかしら? 」

彼の対面のソファに腰を降ろした智代は、自分の分のコーヒーカップを手に取り

口元に持って行きながら教え子に問いかけた。

「はい、あの、昨日、家でネットを使って前もって調べておいたので、すぐにわ

 かりました」

もらった名刺に印刷されていた住所で地図検索を行ない、ついでに路線検索も済

ませていた芳弘だから、何の問題もなく目的の女教師のマンションに辿り着いて

いた。

「へ〜、なるほど、便利なのね、私は方向音痴だから、住所だけ教えてもらって

 も、目的地に辿り着くまでに、たぶん通りがかりの2〜3人に道を聞いて、そ

 れでも迷うと思うのよ」

コーヒーを啜った後に、コロコロと自分の方向音痴ぶりを笑い飛ばす智代の表情

豊かな美貌が眩しくて、芳弘はろくに顔をあげることすら出来ない。二人はその

後、文芸部の事や、クラスに関する当たり障りの無い会話を交わして行く。芳弘

の胸中では早く自分を招いた理由を知りたいと思う気持ちと、もっと、このまま

他愛も無い会話を楽しみたいと言う気持ちが鬩ぎあう。

 

「ところで、今日わざわざ来てもらったのはね… 」

いよいよ話が本題に触れたことから、芳弘は気を引き締めて目の前の美しい女教

師を見つめた。

「西崎くんの事なのよ」

意外な名前を聞いて、少年は驚き息を呑む。

「君も知っての通り西崎義人くんが、この二週間、学校に来ていないの」

辛そうに表情を強張らせた女教師の口から出た名前に、芳弘は良く言えば素朴、

悪く言えば間の抜けたクラスメイトの男子生徒の顔を思い浮かべた。

「御自宅にお電話して、お母さまと何度かお話したけれど、西崎くんはもう学校

 には行きたく無いって部屋に閉じ篭っているそうなの」

コーヒーカップを硝子テーブルの上に置いて、智代は悲し気に少年を見つめる。

「勉強の方はトップクラスでは無いけれども、落第を心配するような成績では無

 いし、他の生徒に聞いても、別に喧嘩とか、嫌がらせも無いって言うし、原因

 に心当たりが無いものだから、正直に言って西崎くんに、どう接していいか分

 からないの」

美しい顔を曇らせて憂鬱な面持ちで小さく溜息を漏らすから、別に怨みは無いけ

れども芳弘は憧れの女教師に迷惑をかける登校拒否のクラスメイトを軽く憎んだ。

「それで私、ひよっとしたら学校で、しかも皆の前では言いにくい理由で休んじ

 ゃ無いか?と、推測したの。だから、こうしてわざわざ君にウチまで来てもら

 ったのよ」

智代が真正面から真剣な眼差しで見つめて来るから、芳弘は照れてうなじまで赤

くなった。

 

「ねえ、新田君、西崎くんの長期の欠席の理由を君は知らないかしら? もしも

 知っているならば教えてほしいの。君から聞いた事は、絶対に他の人には言わ

 ないから、おねがい、欠席の理由を何か心当たりは無いかしら? 」

「心当たりどころか、たぶん知っていますよ、僕は」

事も無げに答えた少年の事を、智代は目を丸くして見つめた。

「知っているって、本当に? 」

「はい、たぶんですけれど、西崎君はからかわれるのが嫌で引き蘢っているんだ

 と思います」

ひと月ほど前の小さな出来事を思い出しながら、芳弘は説明を続ける。

「西崎君は、普通に喋っている時には大丈夫なんですが、興奮したり怒った時に

 は軽く吃音が出ちゃうのを御存じでしたか? 」

少年の言葉に驚きながら、智代は首を横に振る。

「じゃあ、西崎くんは、どもりを苦にしているのかしら? 」

「はい、彼が休み始めた少し前に、クラスの男子が数人、執拗に西崎君のどもり

 癖をからかっていたんです。わざと彼が怒るように挑発しておいて、憤慨した

 西崎君がどもると、それを大袈裟に真似をして囃し立てた事がありました」

ここに呼ばれたのが自分の事では無く、クラスメイトの引き蘢りの相談だったこ

とで少し拍子抜けしたものの、それでもクラスの中で自分だけが美しい女教師に

選ばれたことは芳弘の自尊心をくすぐっている。

 

 

 

 

 


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