最初の頃はまだ智代に対する崇拝の欠片が、どこか心の片隅に転がっていた少年 は、その経験値を無視して前澤に張り合うことを諦め無かった。しかし、アブノ ーマルな行為を重ねる度に、前澤と智代先生との主従関係の間に割り込むのは無 理だと思い知らされた少年は、今では素直に勉学ばかりで無く人生の性の深淵を も学ばせてくれた二人の婚儀を祝福できる気持ちに成っている。 それは前澤の口から、たとえ二人が夫婦になったところで、智代の名字が変わる だけで、それ意外の状況には何の変化も無いとの確約があればこそ、芳弘は冷静 を保っていられた。 「君には一応、生徒の代表として短くてかまわないから披露宴でスピーチをお願 いするわね」 「えっ、僕がお祝のスピーチですか? そんなのガラじゃありませんよ、先生」 変態的な性行為にどっぷりと漬かっている少年だから、結婚式と言う晴れがまし く、しかも清楚なイベントに顔を出すのは些か気が引けている。それに、最近の 前澤の言葉の端々に、女性にとっては人生において最重要な出来事に、なにか良 からぬ企みを目論んでいることが感じられていたので、芳弘は腰が引ける思いを 持て余しているが、同時に悪辣きわまりないサド科学教師が、智代を娶る式典に おいて、いったい何を目論んでいるのか? 何をしでかすつもりなのか、自分の 目で見て確かめたい欲求も強かった。 「とにかく、ちゃんと来てよね。御主人様も望んでいらっしゃるんだから」 前澤の事を語る時の智代は、夢を見ているような陶然とした風情に成るので、す でにサドの科学教師に対しての蟠りは払拭したものの、やはり初めての女性が他 の男に露骨に思慕の情を示すのを穏やかな気持ちで眺める境地には、まだ至らな い。
(僕も心が狭い男だなぁ… ) 年が離れ過ぎている上に教師と生徒と言う禁断の関係でもあり、しかも高校生の 自分には明るい未来はあっても生活力は皆無な事を十二分に悟りながら、それで も憧れていた女教師が、オタク感まる出しのサド科学教師との華飾の宴に心を踊 らせる有り様を見ると、胸の小さな痛みを持て余す芳弘だった。 「それじゃ、新田くん、戸締まりはよろしくね。あと、寄り道しないで帰るのよ」 瞬時に教師としての仮面を取り戻した智代は立ち上がると、目の前の机の上に乱 雑に置かれていた書類をまとめて手に取り、振り返ることも無く図書準備室を後 にする。部員も全部帰宅の途についているので、ひとりポツンと残された少年は 、少し前まで恋い焦がれていた美貌の女教師の花嫁姿を想像して鬱々と心を沈ま せた。
人品骨柄、それに人格は最低なのだが、教師の仮面を被った時の前澤の日頃の行 ないは悪くないのか? 二人の華飾の宴を祝福するように空模様は快晴で雲ひと つ見当たらない。近々に真夏の到来を予感させるような強烈な陽射しが道行く人 々から容赦なく水分を搾り取っているが、分厚く遮光性の高いガラスに包まれた ホテルのロビーはエアコンにより快適な温度が保たれている。 中庭に笑ってしまうような小さく、そして陳腐な式典専用の教会を持つホテルの 、結婚式への出席者が屯するロビーは大人ばかりで、芳弘は無聊を慰めるために 窓際に立ち、背広の上着を小脇に抱えて汗を拭きながら足早に交差点の横断歩道 を渡るサラリーマン達を眺めていた。 (それにしても、こうなると学生服って言うのは便利だよな) 高校に入学した当初は、黒地に詰め襟の時代錯誤の制服に辟易としたものだ。同 じ学区の濃紺のブレザーにグレーのスラックスを着込んだ同級生を駅で見る度に 、詰め襟の息苦しさが倍増して何度も顔を顰めていたが、こうやって公の席に出 る場合には、ブレザーよりも、より正装と言う感の強い詰め襟の学生服は、周囲 に対しての気後れ無く着用で来て利便性は高い。 成長期にあり1年で身長が5センチも伸びる芳弘だから、いかに担任教師の結婚 式に招かれたとしても、おいそれと両親にダークスーツの新調を強請るわけには 行かない。すぐに着られなくなるのを覚悟でサイズの合ったものを選ぶか? そ れとも身長の今後の伸びしろを予測して、ダブダブのダークスーツにするか? どちらも願い下げだった芳弘だがら、学生の正装として社会的に認知されている 詰め襟の制服の着用は当然の選択と言えた。 (うわぁ、表は暑そうだな、これじゃ帰りが憂鬱だ) おそらく3時頃には華飾の宴から解放される事になるが、まだ初夏の厳しい陽射 しが緩まぬ時間帯と予想されるので、うだるような暑さの中、夕立ちを恐れつつ 帰路に付くことを思い芳弘はうんざりとした顔に成る。 (一応、折りたたみの傘は持って来たけれども、駅まではチャリなんだよなぁ… まあ、もしも夕立ちに成ったら、おとなしく駐輪場に預けたまま、今日はバス で家に帰ればいいか) 憧れていた智代が、今日で前澤婦人と成ることはとうに納得はしていたが、それ でも心の奥底に澱む割り切れ無さを持て余して、ついつい芳弘の思考はこれかた 執り行なわれる華やかな結婚式から離れて行く。取り留めの無い思いを抱えなが ら窓辺に立ち、ぼんやりと外を眺めていた。多くの来賓でごったがえしているロ ビーだから、誰も窓際の少年に気をとめる者はあるまい。そう思い込み気も漫ろ に表通りを流れる人の波を眺めていた芳弘だから、急に二の腕を掴まれて後ろに 強く引っ張られた時には仰天した。
「うわぁ… 」 油断していたのでバランスを崩し、あやうく転びかけた少年だが、かろうじて堪 えることが出来たのは、彼の腕を無遠慮に引っ張った人物が支えてくれたおかげ だった。とは言え、いきなりの狼藉に多少は腹を立てた若者は眉を顰め精一杯に 憤りを顔に出して振り向いた。しかし、彼の憤怒の表情は1秒とは続かない。 「あれ? やっ、山口先生! あっ、でも… 」 今日の主役が濃紺の地味なスーツ姿でいきなり現れたと錯覚した芳弘は目を丸く して慌てふためく。 「勘違いしないで、私はトモ姉じゃないわよ」 言われてみれば、確かに目の前の女性は智代先生では無い。まず、緑の黒髪が艶 めかしい智代に比べて、目の前の女性は今風の茶髪で、その長さも少し短い。ま た智代には無い唇の端のすぐ下にあるホクロが極めて印象的だ。背丈も女教師に 比べると、やや高く、それに口から溢れた台詞の声色も、やさしげな智代に比べ ると低く、しかも掠れ気味でセクシーだった。それでも少年が担任の女教師と彼 女を見間違えたのは、細々とした相違はあるが、全体から受ける印象は智代と似 通っており、とくに印象的な目の輝きは、そこだけ見れば智代そのものと言って も過言では無い。 「わるいけれども、ちょっと付き合ってちょうだい」 「あっ、あっ、あの… うわぁ… 」 少年の返事を待つ事も無く、ナゾの彼女は芳弘の手を捉まえたまま、やや大股で 闊歩してどんどんとロビーを横切り、ゆっくりと開く硬質遮光ガラス製の自動ド アに苛立ちながらホテルの外に歩み出た。
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