「去年、あっさりと、そのイケメン銀行員と別れたトモ姉が、旦那さんにしたいっ て連れてきたのが、あのキモデブなんて! どうかしてると思わない? しかも 、イケメンの前の彼氏をふったのはトモ姉の方で、いきなり別れ話を持ちかけら れた前彼は再起不能の大ダメージを喰らって、今でも落ち込んだままなんだから」 前澤と智代の裏の関係を知り尽くしている芳弘には、十分に頷ける展開だが、たし かに外から見ていれば、智代の心変わりの意味を計りかねるであろう。ここは合意 を示すのも問題だから、少年はそれとなく話題を逸らしに掛かる。 「あの、随分と詳しいのですね、その… 山口先生と、元カレの事を。なんで元カ レが今でも落ち込んでいるって、御存じなんですか? 」 少年の問いかけに、由梨江は面喰らったような顔に成る。 「そっ、それは、その、トモ姉の元カレが、私に、その… 泣きついてくるのよ。 なんで自分がトモ姉にふられたのか? なんでトモ姉が、他の男を選んだのか? どうしても分からないって、煩くてしょうがないのよ。案外に女々しいから見て くれは悪くないけれども評価急落だわ。それにしても、私もトモ姉の心変わりが 不思議だから、それでアンタを見て、何か少しは事情を知っているんじゃないか と思って、ここに来てもらったわけ」 ようやく由梨江の疑念の理由を、ほぼ見極めたから、裏の事情を全て知る芳弘は内 心で安堵の溜息を漏らした。少なくとも今の時点では由梨江は姉が性交奴隷に堕ち て肉欲に狂い元カレを捨てたとは夢にも思ってはいない。ただ、美男美女のカップ ルから美女と野獣、いや美女とキモオタの恋人同士と成り、それが結婚にまで発展 した事を、妹はどうしても理解も容認も出来ずにいるらしい。 だとすれば事はそんなに深刻とも思えない。この強引で強気な義理の妹の存念を前 澤に知らせ、彼女が姉と義理の兄との結婚に疑念の目を向けていることを告げれば 、あとは世慣れた前澤が上手く丸め込むだろうと、この時の芳弘は楽観していた。
「そう言う事ですので、僕では余りお役には立てないと思いますよ」 「そうよね、考えて見れば、生徒のアンタにしっぽを掴ませるほど、あのキモデブ も馬鹿じゃ無いってことよね」 言いたい事を語り終えた由梨江は、注文したアイスコーヒーを半分ほど残してさっ さと伝票を手に取り立ち上がる。慌てて自分の分のコーヒーを飲み干した少年はレ ジで支払いを済ませた彼女にようやく追い付いた。 「あの、僕のアイスコーヒーの分… 」 「いいわよ、無理にここに誘って話を聞いたのはアタシだもの」 財布を取り出した少年に断わりを入れた由梨江は、そこで何かを思い付く。 「ねえ、携帯、持って来ているでしょ? ちょっと見せて」 「あっ、はい」 コーヒーを奢ってもらった手前、断るのも難しいし、肝心なメール類にはしっかり とロックを掛けてあったので、芳弘は胸のポケットから自分の携帯電話を取り出し た。 「あら、シンプルね。これなら大丈夫ね、ピッ… と 」 自分の携帯を取り出した由梨江は手慣れた様子で操作して、お互いの携帯の情報の 交換を行なった。 「これでアンタのメアドとナンバーはゲットしたから、また何か相談したくなった ら連絡するわ。アンタの方にも登録しておいたので、もしもあのキモデブについ て、何かわかったらメールなりで連絡してちょうだいね」 来た時と同様に少年の返事を待つことも無く、芳弘に携帯電話を返した美女は颯爽 と喫茶店を後にする。我に帰った少年が慌てて追い掛ける頃には、彼女は既に横断 歩道を半分ほど渡り終えている始末だ。もう芳弘には何の興味も無いと言った様子 で結婚式と披露宴が行なわれるホテルに吸い込まれる美女の後ろ姿を眺めながら、 彼も小走りで青信号が点滅しはじめた交差点を横切った。ようやくホテルのロビー に戻った芳弘は来賓の数が妙に増えている事に驚いた。
「おや、先生達以外のカップルの挙式もあるのかな? まさか、ここの皆が先生達 の披露宴に招かれているってことは… ないよねぇ… 」 けして狭くは無いロビーに集まったダークスーツ姿の男性達と、様々なドレス姿の 女性達の人数は少なく見ても100人は下るまい、いや、100人どころか200 人に近いのではないか? 一介の高校の教員同士の結婚披露宴にしては仰々しさを 増して行く状況に圧倒された少年の胸ポケットの中で、マナーモードに設定してあ った携帯電話が細かく揺れ始めた。 (あれ? 由梨江さんかな? ) ついさっき、初対面の喫茶店でメアドとナンバーの交換を行なった美女からの早々 の連絡下と早合点した芳弘だが、電話の主は憧れの女教師の妹では無く、彼女との 会話の中で再三再四話題になった科学の教師だった。 「はい、もしもし… 」 周囲への迷惑を恐れて、ロビーの隅の柱の影に廻り込んでから電話に出た少年の耳 に、慣れ親しんだ共犯者の陽気な声が飛び込んで来る。 「おう、今どこだ? 」 「はい、今はホテルのロビーにいます、先生」 周囲に由梨江の姿は見当たらぬが、それでも彼女の存在を意識した芳弘は小声で返 答する。 「そうか、それじゃ、エレベーターで最上階まで上がって来い、1801号のスイ ートだ。鍵は開けておくから勝手に入ってこいよ」 「はっ、はい、わかりました」 結婚式まで時間は無いが、ついさっき接触した智代の妹の由梨江の事を彼の耳に入 れておきたかったから、芳弘は何の疑念も持たずに電話を切ると、きょろきょろと 左右を見回す。
「あっ、あった、あれだ」 ロビーの奥にエレベーターの表示を見つけた少年は、もういちど辺を見渡して由梨 江の姿が近くには無いのを確かめてから、けして目立たぬようにゆっくりとした歩 調で歩き始めた。ロビーを抜け出たすぐの場所に3器並んでいたエレベータの左端 を選んだ芳弘は、落ちつかぬ様子で呼び出しボタンわきのデジタルの階数表示を見 つめる。 ポーンと言う間の抜けた音が響き、エレベーターの到着を知らせたから、少年はほ っとひと息吐いてから箱の中に足を踏み入れた。ゆっくりと扉が左右から閉まり、 エレベーターが上昇を始めると緊張感から解放された芳弘は思わず大きく伸びをす る。幸いなことに途中で呼び止められる事も無く、エレベーターは最上階の18階 に辿り着いた。 「えっと… 1801号室だったよね? 」 エレベーターホールの壁に取り付けられた18階の案内表示板で部屋の場所を確認 した少年は、高級感漂う清潔で広い廊下に気後れしながら歩き出す。勝手に入れと 言われてはいたが、はいそうですかと言うわけにも行かないので、彼は一応180 1の表示が成されたドアの前に辿り着くと、小さくノックする。だが、聞こえない のか? 中からの応答は無かった。
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