その5

 

 

 

「おはよう、洋一! 」

「やあ、おはよう、雅也」

お調子者のクラスメイトが洋一の背中をどやし付けながら、朗らかに朝の挨拶をしてく

る。いつもならば、手荒すぎる挨拶に反発した彼は友人をド突き返して、そこから戯れ

合うのだが、昨晩、短い人生経験の中でも最大級の衝撃的な体験をした洋一は、今朝に

なったもまだ気も漫ろで、とても友人の雅也と掛け合い漫才を楽しむ様な余裕は無い。

「あれ? どうしたんだ? どこか躯の具合でも悪いのか? それとも登校する通学路

 に落ちていたピザかチョコでも食べて、お腹が痛いのか? 」

いつもの様に陽気に相手に成ってくれない洋一の態度が不満だから、雅也はわざと明る

く彼に拾い喰い疑惑を問い質す。

「いや、そんなことは無いけれど、いや、まあ、そんなもんかな? 」

 

明らかに、お前なんか相手にしている暇なんて無いんだ! と、言うオーラを放つ洋一

だから、雅也はひょいと肩を竦めると黙って他の生徒の所に行ってしまった。ようやく

ひとりに成り落ち着いた洋一は、あらためて昨夜の芳美との刺激的な体験を脳裏で反芻

する。自然公園の整備道具の倉庫に不法侵入した二人は、そこで不純異性交遊に及び、

彼は童貞を、そして芳美は処女を失った。行為が済むと、芳美の指示に従い淫らな行為

の形跡を注意深く消し去った後に、二人は何喰わぬ顔をして自然公園を立ち去った。

 

夜が遅くなったので、彼は芳美を家まで送り届け、玄関先で彼女の母親に挨拶して御礼

を言われてから自宅に戻っていた。帰宅が遅れたのに連絡も入れなかったことで母親か

ら小言を喰らっても、夕食を取っている最中も、風呂に入っていても、洋一はずっと上

の空だった。いろいろな出来事があったから躯はくたくたで、いつもよりも早くベッド

にもぐり込んだが、強い疲労感はあるものの、部屋を暗くしても目は冴えるばかりで、

なかなか寝付くことが出来なかった。それでも夜中過ぎになんとか眠りはしたが、朝の

目覚めはけして気分爽快とは言えず、まだ頭がぼんやりしていて、なにか肝心なことを

忘れている様な気がするのだ。

(よろしくね、洋一、もう私はあなたの女なんだから)

ぼんやりとしていると、この言葉が何度も頭によぎり、それだけでニヤついてしまいそ

うに成るのを懸命に堪える洋一だから、クラスの女生徒が彼の名前を呼んでも、すぐに

は気付かなかった。

 

「ねえ、塩沢くん、塩沢くんてば! 」

背後から肩を叩かれて、ようやく我に返った若者は、呼び掛けて来た女子生徒を怪訝そ

うな顔で見つめる。

「さっきから何度も呼んだのに? まだ寝ぼけているの? ほら、生徒会長の江波さん

 があなたを訪ねて来ているわ」

江波と言う名を聞いて、洋一は思わず椅子を蹴って立ち上がる。椅子が床を擦り大きな

音が響いたから、クラスの同級生の視線が若者に集まるが、彼はそんなことに頓着して

いる余裕は無かった。教室の後方の入り口に佇み手を振る美人生徒会長の姿を見つけた

洋一は、なぜ彼女がわざわざ自分の教室を訪ねて来てくれたのか不思議に思いながら芳

美の元に駆け寄った。

「はい、これ、忘れ物よ、塩沢くん」

彼女の手には数学の教科書とノートが握られていた。

「あっ! 」

昨晩のとんでもない行為のせいで、彼の頭の中から数学の宿題の事はスッポリと抜け落

ちていた。自然公園の作業所で後片付けに追われていた時、洋一は彼女に教科書とノー

トを預けていた。そして、芳美を彼女の家まで送ったときには、預けた事をすっかり失

念していたのだ。何か肝心な事が思い出せないもどかしさは解消されたが、その結果と

して今週の週末が罰則のレポート作成で潰れることが決定的と成った若者は、心のそこ

から己の迂闊さを呪った。

 

「ノートの内容から推察したんだけれど、ひょっとして洋一の宿題って、136ページ

 の問4かしら? 」

彼女の囁きに応じる為に、洋一は手渡された数学の教科書をパラパラと捲る。

「はい、おっしゃる通りです、この問4の方程式の解を求めるのが宿題なんですが… 」

途中で行き詰まった洋一は、何度も最初からやり直してみたが、どうしても上手く行か

なかった。

「やっぱり、そうなのね。そう思ったから、ほら、私の方で正解の式を書いておいてあ

 げたわよ。君も模範解答を見れば分かるでしょ? 」

彼女の言葉に誤りは無く、忘れ物のもう一方のノートを捲ってみれば、たしかに彼が何

度もしくじった計算式の後に、理路整然とした達筆な式が記されているではないか。

「はぁぁぁぁ… あっ… ありがとうございます」

地獄の底に転がり落ちる一歩手前で予想もしない救援を受けた洋一は、安堵の溜息をも

らしつつ目の前の美女に頭を下げた。そこまで来て、ようやく彼はクラスメイト、とく

に男子生徒の大半が、彼と芳美の事を注目しているのに気が付いた。ひとつ年上の美し

い生徒会長の人気は、洋一のクラスでも非常に高い。さすがに二人の会話を邪魔するよ

うな図々しい輩はいないが、男子生徒の連中は各々が他の生徒と牽制しあいながら、そ

れとなく芳美の事を気に掛けている様だ。

 

「なんだか注目されちゃったね。迷惑だったら御免なさい」

「いいえ、迷惑だなんて! とんでもないです。忘れ物を届けていただいた上に、宿題

 まで助けて下さって、もう、御礼の言葉もありません」

遠巻きで見つめる男子生徒達は、なにか生徒会のことで洋一と芳美が会話している様に

も見えているだろう。しかし、彼女は、そんな連中が聞いたら驚くような事を口走る。

「御礼は、躯でしてちょうだい。今日は生徒会の会合は無い日だけれど、二人っきりで

 もっと親睦を深めたいから、放課後に生徒会室まで来てね。まっているわ」

彼女の微笑みを直視して、とたんに心拍数が限界まで跳ね上がった若者の返事を待つこ

ともなく、芳美はくるりと身を翻して颯爽と立ち去った。

 

「なあ、お前、生徒会長と親しいのか? 」

「そういえば、コイツ、生徒会で書記やっているもんな」

「羨ましすぎるぞ、おい、今度会長の俺の事を紹介しろ」

「それよりも、俺がお前と書記をかわる。いや、代わってくだされ! 」

席に戻った洋一の周囲には美貌の生徒会長に憧れる男子生徒が集まり、めいめいに勝手

な事を言い合った。その喧噪の中で洋一は、会長の来訪の目的は生徒会関連の伝達事項

の確認であり、自分に対する個人的なものでは無いと、白々しい嘘を押し通す。騒がし

い連中に迷惑なふりを装いながら、彼は内心では気持ちが昂り、それが顔に出てニヤけ

ないようにする為に苦労していた。

 

 

 

 


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